成長しているように自分では錯覚しつつも実際にはエゴが拡大することが多々あり、そうなると、なかなか悟りにくくなります。一方で、「躾」をされる、あるいは「理想の姿」を教義で教えられることにより、「振る舞い」においては正しいかのような立ち姿になりますので、なんとなく成長しているかのように自分で思ってしまったり、あるいは、周囲からそのように評価されることでますます勘違いしてしまったりします。
これは、特に悪気があってしていることではないにせよ、悪気がないからこそ、なかなかに根深い問題でもあります。
特に、流派のヒエラルキーに組み込まれてしまうとなかなか悟りにくいように思います。
家柄も似たようなもので、良い家系、本家などに生まれてしまうとそれだけで何か自分が優れているかのように思ってしまうものです。
ここで言う流派とは悟りを目指す流派であれば何でも割と当てはまるわけですけど、流派に入ると環境として悟りに至りやすいという土壌が元々はある場合が多々ある一方で、このような落とし穴もあるわけです。
私の見たところ、8割は割とこのような落とし穴に落ちるかあるいは一瞬ハマってしまいがちな気が致します。
流派というのは、悟りのための「環境」としては有効活用できると私は思いますけど、実際に、中に入ってヒエラルキーに組み込まれることは自分の成長にさほど役に立たない、というのが実感です。
ただ、例外があって、優れたグルがいて、かつ、そのグルが自分も含めて全員に等しく接してくれて、そのグルの団体立ち上げの初期メンバーになれるのであればメンバーになるのもありかと思います。そうなればグルの近くに居ながらにして多くを学べるでしょう。
しかしながら、遠くにいたり、あるいは、グルがヒエラルキーに基づいて接することで自分とあまり接点がないのであればヒエラルキーに組み込まれるのはあまり有用ではないように思います。
環境として有効活用するだけであれば弟子にならなくても良い場合が最近は多いですし、弟子にならないと施設を使えないということであれば、ヒエラルキーのことは仕方なく受け入れて施設や指導を受けるというのも、割り切りとして一応はありかと思います。
ですけど、ヒエラルキーの階段を登るというのはあまり賢いやり方ではなくて、このようなヒエラルキーというのは本来は自分が成長した結果あるいは既にいる自分のステージがある程度は反映されるべきであるわけですけど、団体になってしまうと古参が幅を効かせることになって、スピリチュアルな成長度合いと団体内でのヒエラルキーが一致していないことも多々あるわけです。そのような場合に、自分より明らかに理解度が低い(とは言っても本人はプライドが強かったりする)人が自分の上に立ったりすると面倒でしかないわけです。
スピリチュアルな団体は環境としてだけ利用すれば良い、というのが私の基本的なスタンスです。