きつい修行をすればするほどエゴが肥大化してしまう人たち

2022-07-03 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

この種の人はある一定数いるもので、実際の修行の目的はエゴの解放あるいは手放しである筈なのに、修行をした結果「自分は成し遂げた」と思ってエゴを強化してしまうことが多々あります。

修行が「承認」の手段となってしまっているわけです。

「・・・の修行をしたから、・・・の称号を得た」
「・・・という、一番厳しい修行を満了した。」

と主張する人がいて、他人がそれに重きを置かずにいると不機嫌になったりします。

自分の理解あるいは成し遂げたことを「承認」してもらわないと気が済まない、そのような、面倒でしかないスピリチュアルの修行者になるべきではありません。

これは、やり方がまずいのです。

実際、修行というものは日常でも行えるものです。

修行という観点からすれば、一般人の方が遥かに厳しい修行を日々しています。

用意された環境の中で、限られた手順をこなして修行を満了することは確かにそれなりに厳しいお話だと私も思いますし、中にはなかなか修行が満了できないものもあります。

ただ、それは、途中で辞めることができない修行というものも一応はありますけどその修行をするかどうかの時点で選択肢が少なくともあるのがほとんどであって、そういう意味では自分が望んで修行の道に入って行うものでありますから、一般人のように否応なく日々の仕事に悩殺される状況に比べたら生ぬるいと言わざるを得ません。

食べ物が用意されていたり、場所が用意されている修行。そのようなものをこなしたとして、本来の目的としてはエゴが浄化されるべきであるわけですけど、それなりの割合で、逆にエゴが拡大してしまう修行というものが存在しているわけです。

私のガイドに言わせると、それはやり方がまずい、ということです。

きつい苦行というものはうまくできればエゴが解放されて浄化されますけど、そのきつい苦行というものは他人に言うべきではなく、隠れて行うべきことだ、と言うのが基本のようです。その理由としては、修行そのものはエゴを解放するものであったとしても、他人に喋ってしまうと対立軸ができてしまい、優越の対象となり、修行の後にエゴが拡大する、とのことです。

また、修行そのものがうまくいかない、という場合も多々あるようです。修行方法がそもそも良くなかったり、修行は良くてもその人の段階に合っていなかったり、指導がきちんとできていない場合ですね。

スピリチュアルなお話というのは自分の内面で行うものですので、理解がどうなっているのかは割と自分にしかわからないお話で、うまくできていると自分では思っていてもそうでない場合も多々あるわけです。