スピリチュアルにおいてゾーンあるいは歓喜の感情が湧き出る段階は重要な成長過程でありますけど、その段階に未だいて卒業していない存在は、それより上位の真理を理論あるいは理解というような形で認識するように思います。
その歓喜のゾーンの段階は対象のあるサマーディとも言える状態で、サマーディ(三昧)は色々と種類がありますけど、対象のある、対象との一致におけるサマーディなわけです。それは感情的な高揚をもたらして一体感を感じ、対象のことをよりよく理解できる状態であるわけです。
それはそれで素晴らしい状態であることには間違いないわけですけど、それより上位の真理は、そのようなゾーンの状態では未だそこまではっきりと認識することはできないわけです。
そして、スピリチュアルの書物や聖典などで理解する際に、はっきりと体感的あるいは経験的に認識するというよりは、理解あるいは理論としてそれを認識するように思います。
実際のところ、ここで「体感」とか「経験」とか言っているのは比喩的な表現であって、その体感とか経験というのは感情の領域でのものではなくて、それより上位の、魂あるいはハイヤーセルフ、はたまたアートマンと言っても良いものによる直接的な体感あるいは経験なのです。それは主体があるようでいてなくて割と全体の存在と繋がっていますので、その体感や経験をそのような「体感」とか「経験」という言葉で言い表すのは本来は不適切かもしれなくて誤解を生じるお話ではあるのですけど、そもそも掴み所のないもののお話をしているので、体感だとか経験とかいうのは比喩的にならざるを得ないのです。
実際のところ、本当に自分が次の段階へと上がって、比喩的に言えば波動が上がってもう一つ上の状態になってしまえば、はっきりと体感的あるいは経験的に認識できるようになります。それは、アートマンあるいはハイヤーセルフが直接的に体験あるいは経験するようになるということです。
そのように、実際に上の段階へと上がってしまえば単純に「体感」「経験」と言っても良いものになるわけですけど、まだ上がっていない場合、それは「理解」あるいは「理論」としてしか認識できないのです。
ここで更に混乱しがちなのが、表現方法によっては、確かに、それはアートマンあるいはハイヤーセルフが行うことですので、肉体あるいは五感に属することの多い「体感」とか「経験」とか言う言葉を使うのは確かに不適切であるかもしれず、そうであるのだとしたら、たとえ実際にアートマンあるいはハイヤーセルフを認識していたとしても誤解の多い「体感」とか「経験」とかいう言葉を使わずに「理解」あるいは「理論」と言った方が適切かもしれないのです。
全てを分かった上で、言葉の誤解を避けるために「理解」だとか「理論」あるいはギリシャ語でロゴスとかいう言葉を使う場合もあれば、そのような言葉の誤解はあるかもしれないですが直感的に正しいと思われる「体感」だとか「経験」という言葉を使う場合もあるということです。
ですから、誰かが「経験」だとか「感覚」あるいは「体感」という言葉を使っていたとしてもその人の段階次第でいかようにも解釈できて、一方、「理解」だとか「理論」とか言う言葉を使ったとしても、これまた、その人によっていかようにも解釈できてしまうわけです。
そのように、使う言葉のお話は色々とありますけど、ここで言っているのは、直感的にどのように感じるかという点であり、直感的なお話をするならばお話はすごく単純で、未だ感情の段階にいる場合は上位のお話を理屈あるいは理論として認識するしかないわけです。上の波動の階層に上がってしまえば、それをどのように表現するのかは色々と選択肢はありますし、まだ上がっていなくても言葉の表現としては色々と選択肢はありますけど、ただ、実際にどのように認知するかという点に関しては1つしかなくて、まだ波動の階層が上がっていなければ、上の階層の理屈は体感的にではなくて単なる理屈あるいは理論としてしか認識できないわけです。