ゾーンと淡い至福の先にある無の境地

2022-07-09 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

ゾーンを超えて安定した至福に至ったとはいえ、まだ至福は弱く、安定していない場合がほとんどのように思います。一見すると安定しているかのように見えて、その至福は、実のところ、感情の高まりが安定している状態であると言えます。感情としての歓喜がゾーンで高まり、激しい喜びが湧き出るわけですけど、その、感情としての喜びが安定して至福の状態が長続きするようになるわけです。

確かにそれは感情としての喜びが長続きする状態ではありますけど、スピリチュアルの段階として、波動の階層としてもう一段階上に上がったわけではないのです。

ゾーンが安定して、その結果として、ゾーンの歓喜の蓄積が地面に降り積もるように喜びの階層が安定することにより至福のような状態が長続きするわけです。

それは、一応は至福と言っても良いものではありますけど、もう一段階上の階層における、より安定した至福とは比べ物にならないものです。

そのような、一応は至福ではあるものがゾーンと入れ替わるように出てきて、感情としての歓喜が安定するわけです。

そして、それが更に進むと、常にゾーンに入っているかのような状態になります。それはあくまでも感情としての歓喜が安定しているという状態ではあるのですけど、それでも、かなりの至福であるわけです。

この段階ですと、その至福を安定して発揮するためにはそれなりの集中と努力が必要です。次の段階に進むにつれ努力は次第に不要になってゆきますけど、この段階ではまだまだ努力が必要なわけです。

そうして努力の必要なゾーン、あるいは、ゾーンと言わないまでも、それなりに継続した瞑想を続けてゆくと、次第に雑念が落ち着いてきて、度々、無の境地に至るようになります。

最初は、今まで途絶えることがなかった雑念が急に一時的に消え去ったことによって空虚と安定を感じることでしょう。それは、ゾーンと入れ替わるように出てきた歓喜とはまた違った種類のもので、思考が消え去って文字通り無思考の状態に一時的になり、それを眺めているだけの状態になるわけです。

それが無の境地で、そこで思考が一時的に止まってしまってはいても、変わらず「観察」するものは働き続けていることを実感します。

この段階に至るまでは、「思考」と「自分」が強く結びついていて、思考の連続、それはつまり雑念ですけど、その雑念が絶え間なく出てきて自分の体力を奪っている状態でした。それが、少なからず無の境地を体験することで思考が体力を奪うことのない瞬間がわずかではあるものの出現し、それと同時に、そのように思考が止まっている状態ではあってもその状態を「眺めている」ような存在、それは意志と呼んでも良いですし「認識」と呼んでも良いですけど、そのように認知する「なにか」が自分の本質だという、聖典に書かれてある事柄が真実であることをこの時点で初めて体感するわけです。

この体験をするまでは、まだ、聖典の言葉は単なる理解あるいは理屈でしかありませんでした。しかし、無の境地に至ることで「見るもの」の本質をわずかながらでも直接的に体験したならば、聖典の言葉が真実であることがわかり、自分の本質である「見るもの」、それはアートマンとかハイヤーセルフとか言われているものですけど、それを本質的に直感的に認識することができると言うことに疑いがなくなってゆくわけです。