個別のお話は色々と理屈をこねて論じることができますけど、真理が全体として正しいかどうかは自分が成長しないとわからないのです。昨今、安倍首相を殺害した犯人の母親と宗教団体のこととか取り上げられていますけど、だいたいの宗教団体は怪しいところも含めて個別の論は割と正しいことを言っていたりもしますけど、個別のお話は頭での理屈での理解であって、それは勉強すれば割と誰でも言うことができて、「ワンネス」だとか「愛」だとか色々と、口では言えますけど、そう言っている人が全体として正しいかどうかは別であって、全体として正しいかどうかというのは要は「本当に神を知っているか」と言う点であって、いくら理屈が正しくても、そこが肝なわけです。
全体として正しいかどうかを見極めることができないと、変な団体に取り憑かれて財産を全部持って行かれたりするわけですね。しかも、あたかも自発的に全財産を寄進したりするようになってしまいます。判断力がないのですよね。結局、自分が神を知らないのであれば、団体や教祖が神を本当に知っているかどうかを知る由もないのですけど、色々と理屈をこねられてしまうと、あたかも神がそこにいると思い込んでしまったりして、盲目的になってしまいます。判断力が更に下がってしまうわけです。
大体、どの人でもそれなりの年齢であれば個別の論については判断はできわけで、そうであるからこそ、寄進を迫るような怪しい団体であっても、個別の論を聞くとそれなりに理屈が通っていたりしますので判断が難しかったりします。ここで言う判断力とは2つあって、理屈のお話と、神様を判断する力のことです。
個別のお話は理屈で判断できる場合が多いでしょうけど、神様として正しいかどうかのお話の判断は難しくて、それは個別のお話ではなくて存在として正しいかどうかのお話であって、全体として正しいかどうかのお話ですので、それは個別とは違うお話なわけです。
そして、全体として正しいかどうかは、聞く側が精神的に(スピリチュアル的に)成長しないと判断がつかないのです。
判断力がつかないうちは「そうかなあ」とか思ってしまったり、判断力がなくなってしまって盲目的に従ってしまったりします。それは宗教団体だけでなくて会社でも起きていて、家庭や地域コミュニティでも起きていたりします。
結局、そういう団体は、教義とかスピリチュアルとかを言い訳にしつつ、従順な召使いを増やしたいだけだったりします。
恐ろしいですよね。考える力を失って従順になり、財産を自らあたかも自発的に寄進し続けるような状況はまともとは言えません。
そのような姿は、本来のスピリチュアルとは真逆に位置するものです。
色々と説明された挙句、判断力が段々と小さくなっていって、最後には「はい」としか言えなくなってしまって「自分」と言うものがなくなり、ただ寄進するだけの従順な羊になってしまったりします。それは、マインドコントロールと言うことでもありますけど、これは、本来のスピリチュアルとは真逆のものであって、このような団体を率いる教祖は重大な罪を犯しています。
スピリチュアルでは確かに素直さが大切と言われていますが、その素直さとは神様に対しての素直さであって、誰か「人」に対する素直さではないですし、スピリチュアルではよく「自分なんていない」とか言われていますけど、それは自分を失って他人に従順になることでは全くないわけです。教祖が自分のことを神様だと思ったとして、信者が自分に従って寄進すれば救われるとか教えているのは、ほぼ100%、それは誇大妄想狂の詐欺でしかないわけです。そうして教祖が神様だとか言われたら判断力のない従順な下僕や召使いたちはハイハイその通りと思って全財産を寄進してしまうのでしょう。教祖は、自分の魂が死後に消滅させられるかあるいは火星送りで半永久的に放置されても不思議ではないくらいの大罪を犯しているわけです。
スピリチュアルな盲目さは人生の基盤を揺るがして、生きている意味を失わせるものです。日々の人生から輝きが消え失せ、寄進するためだけに生きるような生活になってしまいます。盲目さがスピリチュアルであるかのような勘違いがそこに存在し、思考停止こそが幸せだと思い込んでしまうような不幸がそこにあるわけです。
その状態になると、その暗迷の状態から抜け出すためにとてつもない力が必要になります。その状態は、いわば「鬱」と同じで、その状態から抜け出ることが容易にできないのです。
そのような、怪しい教祖に従って盲目でいる状態は、本人としても苦しいのですが、そこに救いがあるかのように思わされていて、抜け出す道もほとんどないように思えます。
全く神様でも何でもない普通の人を教祖だと思い込まされていて、神様だと信じ込まされている哀れな信者たちがいるわけですけど、そう言う人たちは、スピリチュアルだとか教義とかが結局はヒエラルキーの下僕を作り出すための手段として使われているだけだということになかなか気づけないないわけです。
そもそも、スピリチュアルの基本は自立でありますので、自立していない人はそもそもスピリチュアルの入り口にすら立っていないわけです。
色々と理屈をこねて言いくるめてくる宗教団体は「あなたは自立した大人です。判断力があるのです」とか言って入信と寄進を迫ってきたりしますけど、それはスピリチュアル的には大罪であるわけです。やり方が押し売りの高額販売営業みたいで胡散臭いわけですけど、単に胡散臭いだけでなく、他人の精神を盲目にするという点でスピリチュアルを扱う人として救い難い罪を犯しているわけです。
まあ、とは言いましても、この地球はいわば「クソゲー」状態なわけで、普通に生きているだけでもそんな罠はそこら中にあるわけで、経験が少ないとすぐに致命的な失敗をしてしまうわけです。ですから、このような団体にはまってしまう人を責めたりすることはできないわけで、判断力がなくて自立していないとコロッと騙されてしまうわけですけど、割とそんな話はそこら中にあったりするわけです。この地球の人生ゲームは難易度が高すぎますね。
結局、自分が神を知るまでは他人や団体が神を本当に知っているかどうかはなかなか判断できないわけですから、そのくらいにまで自分が理解を深めるまでは大したお金を寄進なんてしない方が良いわけです。「貴方は既に神を知っています」みたいに胡散臭く理屈捏ねてくる団体もありますけど、まあ、そこは軽くかわしてスルーして、人生ゲームをなんとかこなして生き延びてもらうしかないですね。
団体にしても、騙されやすい人をターゲットにしているわけで、判断力がついて騙されなくなると、そもそも近寄って来なくなります。ですから、怪しい団体に言い寄られるという時点で、自分のスピリチュアルはまだまだなわけです。有名になってくるとどうにかして言い包めて広告塔にしようという接触も増えてくるとは思いますけど、普通に生きているという前提であれば、自分がしっかりしていれば怪しい団体は近寄って来ないと思いますし、そもそも波動の階層が違いますので、お互いに存在を認識しなくなって、そんな団体が存在していることすら意識しなくなります。ですから、接触があるということは何がしかの学びの面も一応はあるわけです。