慈悲から慈愛へ、慈愛から純粋な神の愛へ

2022-08-01 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

神の愛は条件なく全てに注がれています。これはよく聞くありきたりのお話のように聞こえるかもしれませんけど、実際そうでありますからそのように言うしかないのです。

情けや哀れみの心は人間的で、それが尊いことには間違いないわけですけど、それはまだ純粋な神の愛には至っていないのです。

神の愛には善悪がなく、判断もなく、この世の全てを愛しています。そこに差別はないのです。どのようなものに対しても神の愛は満ちているのですが、慈愛ですとか慈悲というのは人間的で、そこに「選択」「価値」「判断」が入ってきていますから、まだ神の愛には到達していないのです。

このように聞くと神の愛とはなんと残酷なことかと思ってしまわれる方もいらっしゃるかもしれませんが、むしろ逆で、純粋な神の愛とは愛らしい人にもそうでない人にも等しく注がれている愛であり、そのような残酷かどうかという判断をも超えて全てが愛で満ちているわけです。

人間のスピリチュアルの階梯からすると人間的な慈悲とか慈愛から始まって、やがて、全てを愛する無条件の愛に到達するわけです。それが神の領域と言っても良いわけですけど、神は光に満ちていて存在そのものであり、意識そのものでありますから、人間のそのような思いとは裏腹に、常に神の愛は満ちているわけです。

そのような神の愛を人間が知ってその状態と一致するようになるお、慈悲を超えて慈愛をも超えて常にこの世全てを愛するようになります。

感情や五感で苦しいという感覚を受けることもあるでしょうけど、そのことと、神と繋がっているというのは別のお話なのです。社会生活において重々しい感情と触れ合うこともあるでしょうけど、それすらも神の愛は受け入れるわけです。人は神のように無限の愛とまではいかないでしょうけど、個人の器の大きさに従って愛に満ちるわけです。

こうして人がスピリチュアルな道を歩んでゆくと、最初はその違いがよくわからなかった慈悲と慈愛と愛との区別が時に重要な意味を持ってきます。

スピリチュアル的な成長を目指している人が、自分と同じ波動レベルにおいて葛藤したり共感したりすることには何ら問題がありません。例えば、慈悲の段階にいる人が正直に慈悲の気持ちを表すのには問題がありませんし、慈愛の段階の人がそのような感情や感覚に浸るのも自然なことです。しかしながら、たとえ慈悲や慈愛というような世間一般で「良い」とされている感情や感覚であっても、自分の自然な感覚よりも下であるならば、そのような感覚に自分を合わせるべきではなく、自分が今いる自然な段階に留まるべきなわけです。

これは時として、スピリチュアルな修行者を多少ながら転落させる危険性を秘めていて、自分より低い感情や波動に自分を合わせると、現実がそちらに引き寄せられてしまうのです。

慈愛の人が慈悲に同調したらそのレベルになりますし、他の場合も同様なわけです。

特に、これからようやく慈愛から愛そのものに至る、という人が、慈愛の感情に引きづられてしまうと停滞を引き起こします。

これは、一般社会の通念からしたらなかなか理解されにくいことですけど、実際、そうなのです。

いつも、自分自身の居場所に留まるということがスピリチュアルでは大切で、ざっくばらんに言うのならば「その人らしさ」が必要で、これはエゴという意味ではなくて、自分自身の個性や状態に正直にいて、他者から与えられたり押し付けられたりした仮面のゲームに付き合う必要はないわけです。

それは特に愛に至る時に重要で、慈愛のような人間的な愛からトータルな愛へと至る時にキーになるように思います。