スピリチュアルで能力を求めない方が良いのか?

2022-08-13 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

よく、スピリチュアルあるいはヨーガで「能力を求めない方が良い」というようなことが言われますけど、往々にして、間違って解釈されているように思います。

よくある解釈としては、「能力を求めるとスピリチュアルの成長を阻害する」と言うことです。千里眼だとか他人の心を読む力だとか未来を読む力だとか、そのようなものを求めると足枷になって成長が遅れる、というわけです。それはそれで一定の理屈があって、おそらく、大元になっているのはヨーガ・スートラにある一節かと思います。能力を求めると成長が阻害され、求めない者だけが最高のプルシャ(ヴェーダンタでのブラフマンに相当、いわゆる全体としてのセルフ)に到達すると言われています。

そうして特にヨーガ系の流派では能力を求めないと言うことが教義として定着し、能力的なことを言うことが良くないことかのように思われていたりします。そしてそれに影響を受けたと思われるスピリチュアルも、流派によってはそのような方針にそれなりに従っていたりします。

能力のことを言う人は程度が低い、とみなされる風潮があるわけです。

それに、ヨーガ・スートラの解釈の通説として、「能力を使うのはエネルギーの無駄使い」とされているために、能力は成長の妨げのみならず無駄なものであるとみなされているわけです。

これはこれでそれなりの正当性と論理があってこの様に解釈されているわけですが、私が思うに、本当のお話は少し違っているのです。

能力を求めない方が良い、と言うお話は、既にある程度のスピリチュアルの階梯に登った人がわざわざ低次の現れである能力を使うと波動が落ちるかもしれないので注意する、と言う意味であって、そこまで階梯をまだ登っていない人にはあまり関係のないお話なのです。

ざっくばらんに言えば、まだ能力がない人にとっては関係ないお話なのです。

ですけど、何故かヨーガやスピリチュアルの流派では、まだ能力もさほどない人が「能力のことを言うと成長できない」みたいに言っていて、能力の細かい話をすると「そんなことを話してはいけない」みたいな雰囲気になったりします。

確かに、能力を比べてしまって優越をつけてしまうとそれがエゴになって成長を阻害するというお話はあるかと思います。

とは言うものの、能力それ自体はある程度は自分でしっかりと把握する必要があって、それは自分の手足を動かすようなもので、スピリチュアルの能力というものは高次元(あるいは中間的な次元の)自分の体ですので、自分の体を動かすのに何の躊躇があるというのでしょうか。

それに、エネルギー的にも、ヨーガ・スートラの解説者は「エネルギーの無駄使い」とか言いますけど、実際のところ、肉体の方がよっぽどエネルギーを多く消費すると思います。例えば目の場合、肉眼でものをじっと見たりするとかなり実はそれだけでエネルギーを大量に消費していますけど、サードアイ(第三の目)でものを見ると遥かにエコロジーでエネルギー消費も少ないですので、可能ならば目を閉じて生活した方がエネルギー消費が少なかったりするわけです(私はできませんけど)。

漫画や小説などでそれなりの能力者が目を閉じて生活したり目隠しをしたりしていますけど、漫画などは着色があるもののそれなりに実際の姿をある程度は反映していて、そこには実質的な意味があって、肉眼の目を使わないことでエネルギー消費を抑えて生活をしているわけです。

特にインドである風潮である「能力を求めない方が良い」というのはそのような純粋なスピリチュアルなお話ではなくて、いわゆる「物理霊媒」とも言われているような、現実世界に影響を与えるような能力のことかと思います。そうであればエネルギーの無駄使いというのはわからなくもありません。物体を作り出したり動かしたり、現世利益を求めるということはそれなりのスピリチュアルの階梯にまで既に登っている人にとっては下のレベルのことであって、それは、既に卒業しているはずのものなのにそれをまた求めるということはスピリチュアルの階段を下ることにもなるわけです。

とはいうものの肉体を持って生きている以上はそれなりに物質的な基盤がないと生活できないですから、そのような物質的な現世的な活動とは無縁ではいられなくて、そうであれば、落ちないように気をつけて生活をするくらいしかないと思います。

であれば、トータルでエネルギー的にエコになるように、そして、スピリチュアルの階梯が落ちないように気をつけて能力を使うことは特に問題ないかなと思います。

成長の過程において、スピリチュアルのスクールで能力を勉強したり練習したりすることがあります。それはそれで、自分の手足を動かす方法を勉強するということですから決してエネルギーの無駄使いなどではなく、意味があることだと言えます。