テーラワーダ仏教に基づく禅定(色界禅定と無色界禅定の合わせて8つ)の説明はスッタニパータという経典に基づいていますが、同じ経典をヨーガ行者の本山博先生が解説をしていて、私はこちらの方が腑に落ちます。
まず大前提として、本山博先生は仏教が「欲界」を別にしている点を指摘していて、欲界は色界に含めたらよい、と言っております。 色界というのは「物質」に相当して、(本山博先生の定義における)アストラル界とカーラナ界に相当します。「色」というのは物質のことです。アストラル界というのは主に感情の世界で、一方、カーラナとはサンスクリット語で「原因」という意味ですから神智学でいうところの「コーザル界」に相当して、先生によると、カーラナまでが「物質」とのことです。
■仏教
欲界
色界
無色界
■本山博先生
色界(欲界を含む)
無色界
その上で、色界の4禅を以下のように説明されております。
初禅 何も思わない状態が数秒でも出てきた状態
二禅 一瞬でも雑念が止まって気持ちよくなれた状態。 感情ですのでアストラルの次元に相当すると思われます。
三禅 二禅の気持ちよさを超え、物事に対する直視が生まれてくる段階
四禅 本当に正しいものと正しくないもの、普遍なものと無常なものとの区別がある程度できてくる状態。 アストラル上界あるいはカーラナ次元の始まりに相当。
(「本山博著作集7」を基に解釈)
これらは、私の言葉で言うと以下に対応します。
初禅 集中による一時的な無の安らぎ
二禅 ゾーンによる歓喜
三禅 ゾーンの感情的な歓喜が鎮まり、叡智が深まる
四禅 静寂な境地(直視ももちろん高まる)
■4つの無色界禅定
次に、同書における4つの無色界禅定(の概要)は以下のようになります。
まず、四無色定はカーラナ以上、ヨーガで言うプルシャ以上に相当するとのことです。
仏教では無色界の禅定を「物質を超えた」としておりますが、本山博先生の分類ではカーラナはまだ物質ということで、体があるとのことです。ただし、色界に相当するアストラル界は物質の力が強く、カーラナになると物質とはいえ物質の力はかなり弱くなって精神の力の方が強くなる、という違いがあるそうです。
そのような、まだカーラナの世界で物質の体は持っているものの精神の力の方が強くなったのが無色界に相当し、その無色界を前提とした禅定が四無色定(4つの無色界の禅定)ということだと思います。これは本山博先生の解釈であって仏教の解釈とは異なるところですが、私にはこちらの説明の方が腑に落ちます。
■空無辺処定
心が世界は空であると想うことによって世界は空となったが、世界は空であると想う心は無くなっていない状態。(同書より抜粋)
仏教の世界観として「思いによって物質ができる」という前提があり、その世界観がこの階梯の説明に根強く反映されている、とのことです。本来、物質は物質として独立して存在しているわけで、唯心的な考え方に基づいて、心があるから物質が存在するとしているからこのような階梯になる、とのこと。
説明を読むと、どうやらそのように捉えるよりも、ただ単に、「物のない世界に入っていった、つまり物の力を超えたところに心が達した、一種のプルシャの状態になった」(同書より)と解釈する方が素直に見えます。それは割と一時的なものではあっても、この段階に相当するわけです。言い換えれば「一時的に空を直接的に知覚した段階」と言っても良いと思います。
■識無辺処定
本当の意味での無念無想、識とか想というものがすべてその動きを止めた状態。(同書より)
前の段階であれこれ「想う心」そのものの動きがなくなった状態、とのことです。
■無所有処定
心の動きが数十分、数時間と続く状態。(同書より)
■非想非非想処定
プルシャの次元において識別をする。(同書より)
■識無辺処定が神様の領域の始まり
このような階梯を改めて見てみると、私は今までテーラワーダ仏教風の解釈をしていて非想非非想処定も多少は達成しつつあるのかなという気にもなったこともありましたが、本山博先生の会社に基づくと、私はまだ識無辺処定を成したくらいで無所有処定はこれから、という気も致しますね。ただ、説明を読みますと心の動きが止まって・・・ ということですから、私は瞑想をしているとあっという間に1時間とか2時間とか経っていることがありますから、もしかしたら無所有処定も少しずつ達成できているのかもしれませんけど。
又、識無辺処定は割とサハスララにオーラが集まった時にそのような状態になりやすいようにも思います。だとすれば無所有処定はそこまでできているわけではないような気も致しますが。
このあたりの注意として、以下のようなものがあります。
そういうふうになって無念無相になったからと言って、物理的次元やアストラル次元、さらにはカーラナ次元での欲望、執着が残っている限りは、今ここで言っているようなところには決して達しないのです。また、神様と1つにはなれないのです(同書より)
この段階での神様との(一時的な)合一は何かが見えるとか聞こえたりということはなくて、そういう見えたり聞こえたりというのは色界四禅での経験とのことです。また、色界では体があるので「外に出る」ということが必要でアストラル体とかカーラナ体で外に出たりするけれども、この段階になるとプルシャとの一体であるので、自分も外も一体となっているので外に出る必要はない、とのことです。
そうなってきますと、識無辺処定およびそれが安定してきた無所有処定が神様(個としてのプルシャ)との合一との始まり、と言えるかもしれません。
■非想非非想処定は十分に高い境地
こうして見てみると、私は識無辺処定から無所有処定の段階にいる、という解釈もできますし、それはそれで腑に落ちるように思います。
本山博先生的な解釈に基づく非想非非想処定は私はまだ心当たりがありませんが、サハスララから上に上がって神様と合一した時の感覚かなぁ、という気がしておりますが、どうでしょうかね。
又、同説明において興味深いのは上にも少し言及しました仏教の唯心論的な解釈で、因果関係の説明や禅定の説明が唯心論に基づいているためにこのような解釈になっているという点。唯心論で有るが故に心が物質を作り出すとしているが、本山博先生によれば、物質は心から独立して存在しているものだそうです。仏教は物質の独立性を認めずに物は心の表れだとしていて「3界は唯心の所現」としているから科学は生まれず、世界的な宗教にはなれない、限界がある、とのことです。そういうものを乗り越える必要がある、とのことで、それには納得です。
非想非非想処定は仏陀がウッダカ仙人から教わって、すぐに到達して一旦は悟りかのように思ったけれどもそれは悟りではないと気づいてさらに瞑想を続けた、というのは仏教を知っている人にとっては有名なお話で手塚治虫のブッダにも出てきますけど、その結果、この非想非非想処定は軽視されがちだと思うのです。テーラワーダ仏教の説明を読んでも、色界禅定だけが必須で無色界の禅定は必須ではない(よって非想非非想処定も必須ではない)みたいな説明があったりします。ですけど、そんな乱暴な話はないと思うのです。
むしろ、この非想非非想処定は悟りの一歩手前の境地として、神様の一部、個人的なとはいえ神様、あるいはヨーガでいうプルシャと合一する段階ですので非常に重要な意味を持ちます。この段階が不要で飛び越して一気に悟りなど、あり得ないと思うのですが。それは流派の中で位とポジションを与えるための口実、と言う気もいたします。であれば、悟りを本当に求めている人はそんな詭弁に惑わされないのが良いのかなと個人的には思いますが、それは流派それぞれが判断することですので、これはあくまでも個人的な感想になりますので、流派に属している方はそれぞれ指導者の方針に従うのが良いかと思われます。
こうして本山博先生の解釈を見ていくと、割と一般的には非想非非想処定くらいが限界で、それで割と十分なのではないかと思うのです。それはそれで十分に高い境地でありますし、その先に行けたらラッキー、というくらいでもいいように思います。