キリスト教あるいはエル⚪︎⚪︎⚪︎系の秘密結社などでは生まれ変わりを基本的に認めていなくて、キリスト教ですと裁きを受けてどうのこうのとか、あるいは、人生は一度だけ、みたいな教えもあります。一方、輪廻転生を言っているようでいて言っていないかのような微妙な立場の仏教があったり、はたまた、明確に生まれ変わりを支持しているスピリチュアリズムもあります。
これは、それぞれある意味正しくて、一面を示していると言えます。
確かに、高次元の目で見れば、この現在の自分という分身で地上の人生を生きるのは一回だけ、という見方もあながち間違いではありません。
一方、生まれて死んで、昇天できなくて地上を浮遊霊として彷徨い歩いたり、地上の人生をやり直す場合もあります。
キリスト教においても、死ぬ前に告解をして罪の赦しを受けなければ死後に天国に行けない、とされている場合もありますから、天国に行けずに地上で転生を繰り返すパターンもあると解釈できなくもありません。キリスト教ですと死後の世界が基本的に否定されていて死後の世界はドラキュラとか怖い世界のお話と結びついていますけど、最近はスピリチュアリズムによってあの世の人との交信が試みられており、その筋の人にとっては死後の世界があることは当然のように受け止められていたりします。
実際のところ、生きているこの世も含めて、世界は大体3階層、あるいは4階層に分かれていると言えます。
・地上の物理的なこの世界、この地球、生きている人間の世界
・いわゆる、あの世(ここは2分割できます)
・昇天した世界
これですと3分類ですが、4分割すると以下のようになります。
・地上の世界
・死後、地上に囚われている未浄化霊
・いわゆるあの世。雲の上の世界
・高次の世界。グループソウルの世界
キリスト教などがいうように、理想的には地上での人生は一回で、死後に昇天して高次の世界へと帰るのが本来良いわけです。しかし、途中の世界で引っかかってしまうと、いわゆる輪廻転生のような状態になります。
一番良くないのが未浄化霊で、この場合、転生もうまくできない場合もあります。次にあるのは、いわゆる普通のあの世、霊界です。霊界と言っても色々な世界があって、日本の場合は日本神界があったりして、それぞれ特色のある人たちが暮らしています。割と普通に、元気に暮らしています。
高次の世界は、普通の霊界から更に「昇天」すると行けます。グループソウルの世界とも言っても良く、大きな意識の中に溶け込みます。
そして、高次の世界であっても、理由があれば下の世界に現れてきます。その時々の目的に応じて肉体を得たり、分霊として働いたり、ということを繰り返します。
ですから、生まれ変わり(輪廻転生)があるとも言えますしないとも言えますが、普通の人が考えているような自分の個性そのままが転生するという場合は割と低次のお話で、高次になればなるほど分霊や合流を繰り返して、同じ個性での転生というのはなくなります。それでもコアはある程度引き継がれますので性質は多少は似ることもありますけど、必ずしもそうでもないわけです。
補足: (2023/6/11)
高次の世界から地上の世界を見ようと思えば見れます。時には昔話で出てくるように天から地上を「見下ろす」ような感じだったり、はたまた、サイキック的に映像を脳裏に雲状の鏡のようなものに映し出したりして観察できます。あるいは、誰かの意識に重なって主観の視点で他者の意識を観察することもできます。ですから、上記の段階の全てが「主観」の視点ではなくて、客観の第三者の視点もあるわけです。それぞれの階層において相応のリモート・ビューイングの形があって、見下ろす形式だったりカメラのような映像だったり、はたまた、特定の人物の視点に重なってその人の視点で観察することもあります。この最後のものは分かりにくくて、ひょっとしたら自分かと勘違いしてしまうかもしれませんけど、他人に重なってその人の主観の視点で観察する、という場合と、実際にその人で生きた記憶がある、というのは別物なわけです。
このようなものが重なり合っていますので、脳裏に浮かんでいたり過去生のような記憶が本当に自分に属するものなのか、あるいは、単に観察しただけのものなのか、かなり分かりにくくなっています。
・地上に転生中 → サイキックで第三者視点のリモートビューイング、あるいは他人の主観に重なって1人称視点にて他人の意見をテレパス状態で把握。過去生と勘違いしやすい。
・あの世、雲の上 → 同上。 地上をサイキックで「見下ろす」のが基本。 地上に転生中の時より遥かにやりやすい。見ているものを過去生だと勘違いすることはあまりない。
・高次のグループソウルの世界 → 同じ。更にやりやすい。過去生との勘違いはほとんどない。
他者を観察するときは近くに意識を移動させて外から眺めるのが基本で、その時は最三者視点のカメラで映像が見えますが、その状態で、誰かの意識と重なることでその人が何を思っているのかを知ることができ、その時は主観の視点になるわけです。
また、自分自身に関しては主観視点はもちろんありますが、自分自身の観察であってもアストラル的な状態ですと第三者視点になります。と言いますか、主観と第三者視点が両方あるような感じになります。主観と第三者視点は別々なのですけど意識という点で統合されています。ですから、自分を第三者的に観察していたとして、それが自分の意識という場合もあれば、もしかしたら勘違いで外から眺めていただけの場合もあるわけです。
高次の意識で一時的に重なっているとなかなか区別がつきにくいですけど、恒常的にある自分の意識を一応自分と言っていて、他者の自由意志で動いている他者を一応は他人と言いますけど、一時的に同じになる場合もあります。その時に、それを自分というのか他人というのか、その一時的に重なっているときは見分けがつかない感じにはなりますけど、割とすぐに離れて、そうなれば、たとえ一時的に重なっていたとしても、他者はやっぱり他者なわけです。