最近、エゴ(自我)がハイヤーセルフに吸収されることによってハイヤーセルフ自身が顕在意識で思考を始めるようになったわけですが、思うに、ハイヤーセルフとエゴの関係は、図書館や静かなカフェで騒ぐ人と静かにしていたい人との違いのように思うのです。
この種のことを我々は現実の三次元の物理的な空間で体験するわけですけど、それと同じようなことが人の中で見えないところで行われているわけです。
物理的な普通の静かなカフェで騒いでいる人は、それはそれで楽しくやっているのでしょうが、静かなカフェで静かにしていたい人にとっては「うるさいなあ。迷惑だなあ」と思っているわけです。
それと同じことが一人の人間の中で、エゴとハイヤーセルフの関係に成り立つように思います。
エゴが自分の中でガヤガヤと騒ぐと、それに対して、ハイヤーセルフが「ちょっとうるさいです。静かにしてください」と言います。そうすると、エゴが自分の騒がしさを自覚して「あぁ、自分はちょっと今、恥ずかしかった」と思って静かにします。
この関係は、まさに、物理的な空間と関係性が似ているように思うのです。
思えば、今でこそあまり気にしませんけど、割と若い頃は特に、今まで自分のことを「割と静かでいる方が好き」だと思っていて、静かにすべき空間で静かにしていない人がいると「なんだ、あの人はマナーが鳴ってないな」とか思う口だったわけですけど、自分の頭の中で繰り広げられているエゴの騒音を改めて自覚すると、物理的な肉声と頭の中での思考という違いはあるにせよ、本質で言えば、そこまで違わない、という見方もできるのかもしれない、と思えて、多少ながらの恥ずかしさと共に自制の念が深まる感じがしております。
もちろんそこは物理的と思考という違いはあるのですけど、本当の平和あるいは本当の静寂というのは思考も含めてのことかなと思いますので、肉体で静かにしていたとしても、思考もそれに伴わないのではまだまだ精進が必要ということなのかなと思います。
スピリチュアルでよく言われていることに、地球人は思考のノイズ・雑念が多くて、宇宙人は必要な時にだけ思考してテレパシーをする、みたいなことは言われているわけですけど、思考を完全にコントロールできなければ宇宙人の方からしても「(思考が)うるさいなあ、この地球人は」と思われて、迷惑がられてしまう、ということもあるように思います。宇宙の会話はテレパシーが多いですし、肉声で静かにできても、思考も静かにできなければまだまだ一人前とは言えなくて、そうなるには、エゴが従になって、ハイヤーセルフが主になった状態で思考をする必要があるように思います。