ブッダを迷わせた「魔」というのは有名で他の宗教家もよく「魔」のことに言及しますけど、魔とか悪魔とかいうのは形を持ったもののことではなくて、それは要は煩悩(エゴ)のことなわけです。ですから実際的な力は持っていないわけですけど人を迷わせるから「魔」なわけです。
思考と選択において、わかりやすい魔というのはあるわけですけど、とても巧妙に隠してくる魔というものもあって、ブッダの言い伝えみたいなお話は知られているが故にわかりやすくて教訓になっているわけですけど、実際、普通の人の場合は大抵の場合はわかりにくくて、その人それぞれの生き方や人生観に巧妙に隠されてすり替えられて正当化され、いわば煩悩(エゴ)が本当の自分(真我、(真理を求めている本当の自分)を騙してくるわけです。
それは自我(エゴ)の抵抗ということでもありますけど、瞑想などをするにつれそのエゴが力を失ってもなお、守るべき(偽の)矜持のようなもの、あるいは、もっと尤もらしい理屈をこねて現世利益を追求してくるわけです。矜持というと良いもののように見えたりしますけど本当の矜持というものは少なくて、大抵の場合は実のところエゴの固執な場合が多いわけです。
最近、私も小さいながらもそれに類する気付きがあって、ブッダの言い伝えのようなわかりやすい「魔」は、それが有名だからこそわかりやすいだけで、実際の魔というのはとてもわかりにくくて、自分の行動を正当化するために「魔」が入り込んでいることがあった、ということにしばらく経ってから気づかされました。
一見すると理屈としてはもっともらしくて、その理屈は一見しただけでは言い訳のようには見えないわけですけど真理を求めるという観点からすると実のところ言い訳でしかなくて、現世利益の追求や暇つぶし、あるいは趣味の延長でしかなかったりしたわけです。
まず基本として道徳あるいは流派で定められた生き方をする、という土台があるわけですけど、その上で、言葉としてはもっともらしく聞こえる理屈で入り込んでくる「魔」をどのくらい防ぐことができるのかが大切なわけです。
ただ、個人的に思うのは、そうは言ってもある程度の基礎があれば「あれ。何かおかしいな」ということに気付く筈ですので、それが早いか遅いかくらいの違いだと思うのです。
周囲から指摘することは可能ですけど、実際のところこれは自分で自覚して気付かなければ変わらないものですので、程度問題のようにも思います。カウンセリングなどで指摘されていたとしても、はっきりと自分で自覚するまでは割とすぐに忘れてスルーしてしまうことだったりする、そのような微妙でわかりにくいものが「魔」なのだと思います。
実際、この「魔」というのはほんの少しの力しか持っていないのですけど、それでも、それに納得してしまうと行動が変わってしまって変な方向に行ってしまったり、真理への回り道をしたりします。ですから、たとえそれ自体は大した力を持っていなくても、なかなかに怖い存在でもあるわけです。
ただし、欲望の生き方を続けているとこの魔が育っていって強大な力を持ち、欲望に抗えなくなったりします。ですから、本来的には弱い力しか持っていなくても、体を支配されてしまうことがあるということは、怖い存在でもあるわけです。