すぐ気付かなくても、意識が静まってくればかつての言い訳に気付く

2022-10-30 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

気付きは重要ではありますけど、誰しもがすぐに気付けるわけではなくて、それは、意識の静まりとの関係性だと思うのです。意識がある程度静まってくればそれ以上の荒い階層の部分のエゴ(自我)による釈明あるいは言い訳がいわゆる「魔」でしかないことに気付くわけですけど、それは程度問題なわけです。

流派によってはこの「気付き」を重要視していたりしますけど、割と、この「気付き」というのは「結果」だと思うのです。

いくら意識を集中したり気をつけていたり、はたまた、流派が定めた生き方に正確に従って生きていたとしても、この気付きが得られるかどうかは、そのような集中による気をつけや流派の生き方次第というよりも、むしろ、意識が静まった結果として気付くという種類のものだと思うのです。

ですから、「気付きましょう、気付きましょう」と言う流派があったとしても、それ自体はあまり効果がないと思うのです。

むしろ、意識を鎮めましょう、という方が大切で、意識を鎮めていけばエゴ(自我)も静まってきて、時にその自我が反発して言い訳をしたりもっともらしい理屈をこねて自己正当化してきますけど、その時は「ふむふむ」と思って納得したとしても、やがてもっと意識が静まっていけば、その時の理屈が単なるエゴの言い訳、いわゆる「魔」でしかなかったことに気付くわけです。

その時すぐに気がつけると言うのは、それは既に通過してしまって卒業した種類の言い訳や「魔」でしかなくて、まだ通過している途中のものに関してはその言い訳や理屈は実にもっともらしく聞こえて「そうかなあ」と思ってしまいがちで、その、まだ超えていない魔にというのはとても微妙で精妙ですから、気付くのがなかなか難しいのです。

流派によってはそれを指摘し合うようなことも行われていますけど、指摘というものが入るとそこに上下関係のヒエラルキーが生まれて依存関係や従属関係が生まれたりしますから、指摘し合うというのもよろしくないかなと思います。たとえ本人たちが「そうではない」と言っていたとしても指摘された方には無意識の中に従属関係の楔(くさび)が打ち込まれますからそれ自体が成長の足枷になることもあるかと思います。

それよりは、あまり気にせずに、ただ意識を鎮めることをしていけばやがて「結果」として自ずとかつての言い訳や魔に気づいて行くものだと思います。

そうして気づいた結果、いわゆる「手放し」が起こって、「これは私には不要です。私は、これこれを手放します」という宣言に至るわけです。