スピリチュアルの「手放し」は誤解が多くて、なんとなく聞いて理解しただけだと自分で自由に解釈して違ったことをしてしまいがちのように思います。
手放しとは、習慣を止めるとか、あるいは、思い込みを止めるとか言うのは表層のことで、一般的に思われているであろう、そのような表だったこととはちょっと違うのです。文化的、伝統的に思われてきたことを見直すとか言うことも、本来は、手放しとはあまり関係がないことです。
手放すとは、意識が物理的なものと深く結び付いている状態から離れた状態になることなわけです。ですから、習慣を止めるとか言うこととはそこまで関係がなくて、悪習をやめるというのは手放しとかに関係なくて止めるべきことでありますし、伝統や文化という意味における習慣であればその習慣・伝統・文化に従った方がそのことで悩まなくて済むようになりますから、スピリチュアル的には迷いが少なくなって本来の瞑想や祈りに集中できるということも多々ありますから伝統的な習慣はスピリチュアルの助けになったりします。伝統や文化のあるところでは従った方がスピリチュアル的には迷いが少なくなるわけです。根本的にはそのような文化・習慣とスピリチュアルとは関係がありませんので習慣はなくても良いといえばそうも言えるのですけど、そうは言いましても誰しもが文化の中で生きているわけで、文化の中に生きていない人などいないのですから、その自分の文化の習慣の中で生きれば良いわけです。
よくある状況のように思えるのが、文化や思い込み、あるいは習慣を手放そうとして、その時、沖縄で言うところのマブイ(いわゆる魂)もそこに置いてきてしまう、あるいは落としたままにしてしまい、自分の魂が少し欠けた状態になってしまうに思えるのです。
過去のトラウマにしてもそうですけど、そこまで行かなくても葛藤や思い込みがあると言うことはその過去に自分のマブイ(魂)が置き去りになっていると言うことであり、間違った手放しをするとそのマブイ(魂)がそのまま置き去りになるのです。
「手放し」で本当にしたいのは、それらの事象にまつわる物理的なこの世界の出来事と意識との強い結びつきを切り離したいのです。そうすることで精神が自由になるわけです。
その一方で、それらの思い込みや体験のところに残してきてしまったマブイ(魂)は自分のところに回収して、一方、相手からもらってしまった、あるいは、相手から押し付けられてしまった本来相手のものであるマブイ(魂)は相手に返してあげる必要があるのです。
手放しというと、これらマブイ(魂)が本来ある場所に戻らずに切り離されたまま、あるいは、相手のマブイ(魂)を自分が持ったままになってしまう可能性がありますけど、そこは誤解せず、マブイ(魂)は元いるべき場所にそれぞれ戻してあげる必要があるわけです。そのためにも、精神と物理的な結びつきを切り離す、手放す必要があるわけです。