これは真実であり、常にそうなわけです。かつて一度たりとも一瞬たりともそうではなかった時はなかったし、これからもないわけです。これは特定の誰かのお話ではなくて全ての人がそうであり、自覚があろうとなかろうと全て完璧な人生なわけです。一見すると成功者もそうでない方も変わらずそうなわけです。全ては完璧な人生であって、一見すると効率的に思えたりあるいはその逆に非効率な無駄のように見えることであったとしてもそれは全て完璧な人生の一部な訳です。
この思いは真実と強烈に繋がっていて、特に胸の奥でその真実という感覚と深く結びついています。そこには「自分の人生は自分で作り出している」という強い実感があります。ですから、たとえ一瞬でも自分の人生の主権に対して疑念を抱くと、その疑念はちょっとであったとしても胸の奥にズキっとした痛みを感じるのです。真実はというと自分の人生は自分が作り出していて全て完璧で自分には主権があるわけですから、そうではないという不真実な思いが入ってくると胸が苦しむのです。
不真実は理解する必要がなくて、不真実は非合理でもありますから理解は不可能で、ただ真実を見出しさえすれば自身の存在と選択に対して自信と確信が生まれて元気になるのです。
実のところ、これはとても微妙なお話で、ある程度のエゴ(自我)の浄化ができていないとエゴの強化になってしまう逆効果のお話でもあるのですが、ここで言っている自分というのは本当の自分、いわゆるハイヤーセルフあるいはアートマン(真我)のことですので、ハイヤーセルフが自分の人生を作り出している、というお話なわけです。
■自分の人生は真実として本当に完璧
実のところハイヤーセルフあるいはアートマン(真我)というものは個としての自分としての認識である一方で、全体としての側面から言うとブラフマンのような意識になるのですけど、その両者は実のところ同一であるとヴェーダンタ等では伝えられていて、そうなると、一見すると自分あるいはハイヤーセルフが自分の人生の意思決定をしているように見えて、実は全体としての集合意識が自分の人生を決定づけている、と言うことでもあるわけです。
肉体を持っている以上、一応は肉体に深く結びついた顕在意識あるいは自我(エゴ)が体を動かす主導権を握っているわけですけれども、その上には個としてのスピリットであるハイヤーセルフあるいはアートマン(真我)の意識があって、その更に上には全体としてのブラフマンの意識が連なっているわけです。
これは、一応は全て「自分」と言うこともできて、階層は違いますけど一応は自分でもあって全体でもある意識なわけですが、そのような、全体とも繋がっている「自分」がこの自身の体及び人生を動かしているわけで、それは最初から完璧であって、これからも完璧なわけです。
ただ、顕在意識にとっての「実感」は変化するのが常で、まだ顕在意識がハイヤーセルフと繋がっていない場合はそのような実感は大抵の場合はなくて、単に理屈でこのことを理解するくらいかと思います。顕在意識がハイヤーセルフに繋がって、ハイヤーセルフに人生を委ねるようになればこれらのことが直に理解することができるようになって、それは単なる理屈ではなくて、本当にそうだからそうであるという、真実だからそうであるわけで、特に理屈など不要で、ただ単に本当で真実だからそうである、という状態に至るわけです。