一方で、ハイヤーセルフあるいはアートマン(真我)の意識は抑えません。
(ハイヤーセルフとアートマン(真我)は言い方と流派が違うだけで基本的には同じものです。)
自我というのはヨーガでいうチッタのことでいわゆる心という概念に似てはいますがどちらかというと英語で言うマインドに近いもので思考する顕在意識のことです。一方、ハイヤーセルフも意思は持っていますけどより高次の、感じるという側面が強い意識です。ハイヤーセルフも思考をしますけど、奥底の方から湧き上がってくるのがハイヤーセルフの意識です。
瞑想において、チッタであるところの表層のマインドとしての顕在意識を抑えるのが基本です。
ヨーガ・スートラで言われている「心の作用を死滅させる(Yogas Chitta Vritti Nirodhah)」というのはこの意味であって、マインドの揺らぎ、それは主に雑念や葛藤として現れてきますけど、そのような表層の顕在意識を静かにさせて安らぎを得るということをヨーガは主要な目的にしています。
ヨーガでは、意識には2つあると言われていて、いわゆる普通の意識と神の意識とがあり、抑えるのは普通の意識の方です。神の意識の方はヨーガではプルシャと言われていて純粋精神であり、一方、ヴェーダンタではアートマン(真我)と言われていたりします。厳密には違うものではありますけど、ひとまず、大体似たようなものであると理解しておいても良いと思います(詳しい人に言わせればそれは違うと言いたいかもしれませんが)。
瞑想においては、普通の意識を抑えることが最初の段階です。
ヨーガではダーラナ(集中)とか言われていますけど、世間で瞑想と言われている場合で、やっていることの大半は実のところこのダーラナ(集中)の段階です。実際にはその先の瞑想(ディアーナ)あるいはサマーディ(三昧)に達して本来の瞑想のような状態になっていくのですが、基本としては集中(ダーラナ)なのです。
そうして、ダーラナ(集中)ではチッタを抑えます。
瞑想(ディアーナ)というのは中間的な微妙な段階ですが、基本的にはダーラナ(集中)の延長です。
サマーディ(三昧)も基本的には瞑想(ディアーナ)の延長とされていますが、実のところ、完全に瞑想(ディアーナ)の延長というわけでもありません。
■対象のあるサマーディとないサマーディ
サマーディ(三昧)の場合、サマーディにも色々と種類があるのですが、それは辿り着く段階に応じて各自が「これはサマーディだろう」と思って色々と名付けた結果、色々と混乱をしているように思います。ですけど、それは、2つの意識という視点でまとめるとスッキリするのです。
まず、チッタとしての表層の顕在意識が静まって合一の状態に至るサマーディ。
そして、ハイヤーセルフあるいはアートマン(真我)の意識が表に出てくるのもサマーディです。
実のところ、この両方が同時に起こることが本来のサマーディであるわけです。
前者は、一般に、対象のあるサマーディと言われています。
後者は、一般に、対象のないサマーディと言われています。
前者は確かにその通りですけど、後者に関して言えば、物理的あるいは思想としての対象は確かにないのですけど、意識としては存在しているので、後者であっても対象が一応はあるわけです。ただ、歴史的に、文化的に、後者は一応は「対象がない(明示的な物理的あるいは意識の具体的な思考の対象がない)」とされているわけで、そこまで間違いでもないのですけど、少し誤解のあるお話かなと思います。後者はそれよりも、単に、次元が違う、ということだと思います。次元は多少は重なっていて、端っこの方で物理的な次元を認識はできますけど、それでも、やはり基本は次元が違うのです。
■アートマン(真我)は理解以上の実際の意識そのもの
ヨーガでは両方を扱っていて特に前者に重きを置いておりますけど、ヴェーダンタでは主に後者を扱っていて、解釈に乖離があります。ヨーガにおける後者のサマーディは割と秘伝にされていて、流派に属した上でそれなりの境地に達しないとグルは教えてくれなかったりします。
一方、ヴェーダンタでは前者はアンタッカラナ・シュッディ(内面の浄化)の一部に組み込まれていて、ヴェーダンタにおける瞑想というのは前者としての集中の意味に制限されています。ですから、瞑想と言っても流派によって意味合いが異なるわけです。
アートマン(真我)の意識というのはサット・チット・アーナンダですから満遍なく空間に満ちていて全ての時間の間で過去現在未来変わらず存在している意識のことですから、それは普通のチッタとしての顕在意識とは次元を異にしているのです。であれば対象がない、ということが一般的には言えるわけですけど、次元の境目がありますので、一応、現世(うつしよ)の認識はできるわけです。
ヴェーダンタではこのことを「理解」と言ったりしますけど、実際には、単なる理解以上のものです。それは意識そのものでありますから、単に「理解」としてではなく、高次の意識がきちんと存在していて、それは受動的に「見る」だけではなくて、「働きかけ」としての能動的な側面も存在しています。ですから、アートマンは単に理解するためのものではなくて、実際に、その意識と繋がることができるのです。単に繋がるだけではなくて、それは自分自身でもありますから、自分の意識として、顕在意識を超えたところの高い意識として自覚を持って意識が「知覚する」「判断する」ということができるようになるわけです。
実際のところ、自覚が現れる前であっても最初からそうだったわけですけど、自覚としてはそれなりに瞑想が進まないと自覚が現れないわけです。
この、アートマンとしての自覚が表れるのが後者の「対象のないサマーディ」でありますけど、それは往々にして誤解があって、単に対象がないだけだと前者のサマーディの延長線上でもそのような状態になることがありますけど、本当に行き着くべきところはヴェーダンタで言われているアートマン(真我)こそが自分自身であると自覚をして、更には、アートマンの方が主体となる段階に移行していくわけです。