アストラルなものは一般的な霊能力で、他人の思いがわかるとか、体の中をある程度まで見通せるとか、ごく限られた範囲で他人の守護霊やハイヤーセルフとコンタクトしてメッセージを降ろすとか、限られた範囲で他人の体の中に入り込んで内情を探るとか、そのくらいまではできるようになります。この場合、自分と他者との間に境界があって、オーラを伸ばすとか飛ばすとかして他者を探ることになります。霊視や霊聴としての能力としてもアストラルな領域(あるいはプラーナ、あるいはエーテルとも呼ばれる)に限られることになります。
一方で、プルシャの霊能力あるいは流派によってはアートマンとしての顕現として表現されることもありますけど、その段階のものは、もはや自分と他者との間に境界はなくて、自他同一のワンネスのものとして相手の状態がわかったりします。いわゆる集合意識として自他同一の状態が基本にあって、その上で、他人の意識や状態もワンネスの下に見抜くことができるわけです。
普通は霊能力と言うとアストラルな領域なわけですけど、特にスピリチュアルではこの種のアストラルの能力をとても重視しているように思います。
一方で、ヨーガなどインド系の流派では霊能力を「重要ではない」としているところが多いです。それは、一面として、かつてインドで取るに足らない能力を開発することに一生を費やす人が多数出た反動としての半世紀前の著名なグルたちが「能力は重要ではない」と言うことを主張したように思います。
一方、その流れを受け継いで、一部の日本の人たちも同様の主張をしていたりしますけど、日本の場合とインドとでは状況が違うと思うのです。インドのグルの言うことを鵜呑みにして「霊能力を重要ではない」とみなすことは、大切なことを見落とす可能性があるのです。
実際、霊能力と言うのは目や耳、あるいは手と同じようなもので、肉体に目や耳、あるいは手があるのと同様に、アストラル体には必ずそれもあるのです。ですから、それを否定する必要はさらさらなくて、ただ、それに重きを置き過ぎている過去のインドの修行者たちの風潮に対するアンチテーゼとしてそのような能力否定の風潮が半世紀くらい前にインドに吹き荒れたのです。
そのようなアストラルな能力の一方で、インドのかつての偉大なグルたちはそれ以上の能力が使えました。それはワンネスに基づくプルシャの力で、アストラルな能力は割と物理的なものと結びついていて時間も空間も限られた範囲しか影響を与えたり認識したりできませんけど、プルシャあるいはアートマンになりますと時空を超えますからより自由になるわけです。
そのような意味においてアストラルな能力はそこまで重要ではないと言うことが言えますけど、かといって、自分のアストラルの体にあるものをわざわざ否定する必要もないのです。