マントラにも色々な種類があり、それぞれ効果がありますけど、マントラの詠唱でゾーンの歓喜に至るのが基本的な効果のように思います。
マントラは儀式の一部あるいは修行の一部に含まれていて、基本的には祈りの一部でありますけど呪術的な側面も存在しております。
ただ、そのような流派的、文化的、能力的な側面とは別に、基本的な側面として、ゾーンの歓喜によって内面が浄化されるという効果があります。スピリチュアル的には浄化ですしヨーガ的にはクリアとも言われ、ヴェーダンタ的にはアンタッカラナ・シュッディ(内面の浄化)とも言われます。言い方は異なれど、効果や期待するものとしてはほぼ同一なわけです。
この基本的な歓喜は感情と深く結びついていて、感情的な葛藤や怒り、恐れ、妬み、欲望といったものを浄化する効果があります。
実のところ、この種のゾーンの歓喜はスポーツや芸能で言われているようなゾーンの歓喜と基本的には同じで、対象として神様を望むためにマントラや儀式の方が欲望などの横道にそれにくいという側面の違いはありますけど、効果としては実はほとんど同じなのです。コンピュータなどでプログラムを組む時に、シリコンバレーの技術者がゾーンの歓喜に入る、みたいなお話も同一になります。彫刻や伝統的なものを作る際にゾーンに入ると言うのも同じお話な訳です。
そのように、マントラの詠唱というのは基本的には感情としてのゾーンに入ることが基本的な効果や期待としてあるわけです。ただ、流派の説明として必ずしもそう言っているとは限りませんけど、私の見たところ、基本はそうであると思うのです。
このゾーンの歓喜というのはいわゆるアストラル体の感情的な側面に結びついていて、アストラル体というのは肉体の次にある階層で割と物理的および現世的な側面が強いわけですけど、その階層に存在している各種の汚れを取り除いていくのがマントラあるいはその他の芸能などにおけるゾーンの効果なわけです。
ですから、実際のところ、マントラの詠唱をしなくても芸能などでゾーンに入ることができるのならば同じ効果があると言えるわけです。そのゾーンの歓喜によって内面の浄化が実現し、安らぎが少しずつ深まってゆきます。
そうしてゾーンの歓喜が安定してくると次第にその歓喜の起伏が静まってきて、やがて、静寂の境地に至ります。それがアストラル界から次なるコーザル界(原因界、カーラナ界)へ至った印でもあるわけですけど、そうなるとゾーンに頼る必要が格段に減るわけです。
■必ずしもマントラでなくても仕事でゾーンの歓喜に入れば良い
マントラあるいはその他の行為によってゾーンの歓喜に至ることで次の階層へと進むことができるわけですけど、これは、その人の性質によって何がしやすいのか、何が向いているのかが違っていて、必ずしもマントラを唱えなくてはいけないわけではなくて、自分の生きている環境に則して、やりやすい方法を選べばいいわけです。技術者であれば技術を極めてゾーンに入ることも良いですし、宗教者ならマントラでゾーンに入ることももちろんOKなわけで、芸能をしている人ならば芸能の技を極めてゾーンの歓喜に入っても良いわけです。
どの道を通っても静寂の境地に達することができるわけで、どの分野においてもそれなりに極めた人はとても静かな安らいだ顔をして表情も豊かになっているのは、このようなゾーンの歓喜に達したが故に安らぎの状態に達しているからなのです。必ずしもそうではないわけですけど、基本的には、ゾーンに入ることを何年も繰り返しているうちにゾーンが安定してきて静寂の境地に到達することができます。
これは割と感情的な側面に近いところの、スピリチュアル的には割と基本的なところではありますけど、基本ならばこそ重要で、スピリチュアルで色々と言ったところでこの基本のゾーンの歓喜を通り抜けて静寂の境地に達していないのならば実際には何も到達できていないに近いわけです。
ですから、スピリチュアルを勉強するのも良いですけど、マントラに限らず、身近な題材、特に自分の仕事などは毎日必ず行うものですから自分の普段の仕事をそのまま修行にしてしまうのが一番効率が良くて、仕事を頑張れば成果も上がって評価も上がるでしょうし賃金もそれなりに上がる可能性が増えますし、それに伴ってゾーンの歓喜に入って内面の浄化もできますので一石二鳥なわけです。ゾーンに入りやすいかどうかは仕事にもよりますけど、その仕事の選び方からしてもスピリチュアルを追求できるのかどうかを判断基準にしてもよくて、ゾーンに入ることのできるある程度の見込みのある仕事を選ぶか、あるいは、今の仕事の中で何かそのようなゾーンに入れる部分を探すとか、あるいは、特になくても仕事をきちんとこなせばそれでゾーンに入れる場合もあります。ゾーンというのは対象があった方が入りやすいですけど、ある程度の内面の浄化が進めば全ての行為がゾーンに含まれていきますから、何の仕事でゾーンに入るのかは各自の状態や状況によっても変わってくるわけですけど、特に苦しんでいるということであれば明確な対象のある仕事を選んでゾーンに入れるようになるまで仕事を一生懸命やるのが良いように思います。
■ゾーンの歓喜が精神修行の基礎
仕事の種類は割となんでも良いのですけど、他人に迷惑をかけない種類のものが良いと思います。誰かに貢献できる種類のものがベターではありますけど、そうは言いましてもこの段階ですとそこまで気にしなくて良いと思います。
スピリチュアルな団体はこの世界には数多くあるわけですけど、その中には、自分のやっている流派が唯一正しい政党なもので儀式にせよマントラにせよ自分たちのものが最高で唯一正しいと思って活動している団体が数多くありますけど、参加する側からするとあまり真に受けない方が良くて、その根源はどの流派も正しい、というくらいに思っていた方がいいと思います。そして、その基礎の部分にゾーンの歓喜があるわけです。
流派と言ってもその正しさというのはハートの中の正しさであって、ハートで感じることはどの流派であっても正しくてそこに間違いはないわけです。ですけど、表現というものに関しては違いがあって、マントラにせよ唱え方やその内容、解釈など様々に違いが出るわけですけど、そのような表層の違いというのはあまり重要ではないわけです。一言一句、教えを伝統的に前任者から享受されたグルによって受け継がれたものを代々変わらず継承しているような流派がありますけど、本来、そういう伝統も確かに大切になることはあるにせよ、基本としては各自が自分のハートから繋がるものこそが本物であるわけです。一方、その段階まで至らずに、瑣末な表層の出来事であれは違うだのこれは違うだの言って区別したり他者の流派を批判したり、そういうことに時間を費やしている人が大勢いるわけですけど、実のところ、どの流派もそこまで違いはないわけです。そう表立って言ってしまうと色々と軋轢を生みますし、そんな野暮なことをわざわざ指摘したりはしませんけど、流派の違いとは表層の違いでしかないと思っていますから、どのような流派であっても人を多少なりとも惹きつけているということは多少の真実があるということだと思います。
当人たちは絶対唯一の正当な教えと思ってやっていることもありますけど、そのような考えはエゴを肥大化させたりしますし、人が介在する以上は完全に純粋とはいかなくて人の思想のフィルターを通しますから、話半分に聞いておくくらいがいいように思います。私はそういう団体にわざわざ「他の団体と一緒」みたいなことを指摘するような野暮なことは致しませんし、その流派がそう思うのであれば好きにすれば良いのでありますけど、側から見たところ、一部はその流派の近くで見たりしたところ、基本的にはこのようなことなのではないかと思うわけです。
そして、その、団体に人々を引き付ける、ということの基本が、歓喜のゾーンであると思うわけです。歓喜というのは感情的な側面と結びついていてスピリチュアルでは基礎の部分ではあるのですけど、その基礎が多少あればこそ人を惹きつけるわけで、それはそれぞれの人のスピリチュアルな成長のレベルにもよりますけど、どのような団体であっても多種多様な人がいるからには基礎の部分があるわけで、ゾーンの歓喜はその基礎になるわけです。
■ゾーンの歓喜は個人的な修行
歓喜のゾーンは奉仕などによってもなされることがありますが、流派によってはマントラの詠唱、あるいはプージャなどの儀式によっても歓喜に入ったりします。それは対象に対する没頭でもありますけど、集中による対象(の神々等)への同一視、同一化、ということによって歓喜がもたらされます。
実際のところ、この世界の全ては神の権限であって全ては尊いのですけど、そうは言いましても神様の姿をしているものや対象の方が依存が少なくて比較的純粋な思考、祈りになり得るわけです。
それと同様に、誰か(人)に対する崇拝も一般的には良くないことのように思われていたりしますけど、このような意味におけるゾーンの歓喜という意味においてはスピリチュアルの基礎になり得ます。ただ、人に対する崇拝は必須ではないですし、基礎の段階におけるゾーンの歓喜は他の対象で行った方が悩みが少ないというのが現実かと思います。彫刻や芸術、芸能、技術的なもの、スポーツなど、ゾーンの歓喜はいくらでも選択肢があります。
その段階でもある程度の歓喜がゾーンで湧き上がるわけですけど、それはまだワンネスではなくて、まだ個人としての意識状態な訳です。周囲の人々に対する気遣いや見識もそれほど広がらず、基本的には自分のことが関心ごとの中心の状態な訳です。この、個人が関心ごとの中心、というのは歓喜のゾーンを突き抜けて静寂の境地に至るところまで続きますけど、その先にあるワンネスの状態に至って初めて「他者」との繋がりが重要になってきます。それまでは割と一人で修行をするのが基本で、ゾーンの歓喜にしても自分と向き合うのが基本になるわけです。団体に属していてもその段階まではあくまでも一人で、仲の良い人と知り合いになったりもしますけど、スピリチュアルな成長という観点からするとワンネスに至るまではまだ個人としての存在で生きていて修行も個人が主体になるわけです。
そのように、ゾーンの歓喜という段階は個人的な修行であって、そこで歓喜の状態になることで多少なりとも他者に優しくできたりすることもあるでしょうし仕事において他者と接することも、もちろんあるでしょうけど、まだワンネスに至っていない状態であり、ゾーンの歓喜を抜けるまでは個人的な修行の段階が続くわけです。
そのように、ゾーンの歓喜は個人的な修行であるわけですけれども、その段階に至っている人が霊的な指導者(グル)になった場合、他の流派を認めずに自分の流派が絶対的に正しいと固執する傾向があるように思います。
特に長い歴史があるようなところではグルと弟子との繋がり(グル・パランパラ)が重要視されており、例えばグルを辿っていけば有名な歴史上の人物、法然だとか空海だとか、シャンカラチャリアだとかに辿り着くことを正当性の証にしていたりします。
確かに、そのような正当性というのもそれなりの意味があるわけですけれども、それなりの意味があるからと言って、他の流派を認めるかどうかは別のお話な訳です。自分たちの流派に正当性があるから他の流派が間違っている、と解釈してこの世界の宗教戦争は起こっています。戦争まで行かずとも、他の流派に対して批判をしたりするのは良くあることです。
ゾーンの歓喜くらいの段階ですと静寂の境地くらいがせいぜいで、そのような人が多い流派では静寂の境地が「悟り」だと誤解されてみなされていたりしますけど、静寂の境地は実のところまだ悟りではなくて、ワンネスにも至っていないわけです。
■ワンネスに至ると他の流派を認めるようになる
ワンネスに至れば、実のところ、その段階に至った最初のうちは特に、周囲の人々が全員悟っているかのような錯覚すら覚えます。実はこの世界の人の全てが最初から悟っていて、悟っていなかったのは自分だけだったのではないか、と、ちょっと恥ずかしい気持ちすら覚えるようになります。そうなれば、自分の流派が優れているだとか、自分が高い境地にあるのだ、とかいう傲慢な気持ちは出てくる筈がありません。何故なら、全員が悟っているのですから。
やがて慣れてくると、全ての人が悟っているように見えたのはそれすらも錯覚だったことを理解し始めて、まだ自分には目を曇らせるものが残っていることに気がついて更なる修行へと入っていくわけですけれども、それでも、ワンネスの最初の段階ではこの世の中の全ての人が悟っているかのように感じられるものです。それはワンネスの基礎であって、ワンネスというのは文字通り、全てとつながることですから、全ての人が素晴らしいと感じられることであって、そうなれば、他の流派を認めることも当然のことになるわけです。