ゾーンの歓喜に至る前後では真理の理解がまるで異なります。
流派によっては真理を「理解」とみなしており、修行などしなくても「理解」すれば悟りあるいは解脱あるいは自由(モクシャ)に至ることができる、としています。
実際のところ、それぞれの流派で「やるべきこと」が修行なのかあるいは勉強なのか言い方は異なれども、実のところ、その勉強や修行の内容それ自体は所詮は手法(方便、道具)にすぎないわけです。ただ、その流派の人に言わせればそれは修行だったり勉強だったり儀式だったり祈りだったりしますので、単なる手法とかいうと信仰心が足りないとみなされるかもしれませんのでこういうことを流派の中で言うのはお勧めできませんけど、実のところ、効果としては第一のプラトーであるところの「ゾーンの歓喜」に導くという点に関しては同一なのです。
そのゾーンの歓喜は、仕事に没頭したり、趣味あるいはスポーツに集中して得られるものとほぼ同一です。世俗的なことですと横道に逸れやすいと言う難点こそあれ、実のところ、ゾーンの歓喜およびそれによる自己のメンタル(精神)の浄化という効果は同じなのです。
流派によってはマントラを唱えてゾーンの歓喜に至るかもしれませんし、あるいは勉強を続けて真理に至ったかのような感覚を得てゾーンの歓喜に至るかもしれません。あるいは座禅を組んで瞑想をしているとゾーンの歓喜に導かれるかもしれませんし、ヨーガのアサナをしてゾーンの歓喜に至ったり、はたまた、仕事で何かに集中して、例えば物作りやプログラミングに集中してゾーンの歓喜に至ることもあるわけです。
そのようにして至ったゾーンの歓喜の効果は同じで、精神(メンタル)を浄化して葛藤やトラウマを癒していきます。
流派の人にそう言ったら怒られるかもしれませんけど、実のところ、どの流派でも最初はこのゾーンの歓喜を目指すわけで、そのために荒業で滝に打たれようが蓮華座(パドマアサナ)で長い瞑想を行おうが、あるいは難しいサンスクリットを勉強して聖典を理解しようが、そこで得られるゾーンの歓喜は同じなのです。流派の人は違う、と言うかもしれませんけど、実のところ、同じなわけです。
真理とは、最終的には完全に体感して自分のものにするところまで行き着くわけですけれども、そのためにはいわゆるハイヤーセルフの意識あるいはアートマン(真我)の意識に目覚める必要があるわけです。
それ以前の状態、例えばゾーンの歓喜にまだ至っていない状態ですとか、あるいはゾーンの歓喜の状態、あるいはゾーンの歓喜が静まってきて静寂の境地に至る段階とか、そのくらいの段階ですと、まだ真理は完全に体得するまでには至っていなくて、部分的に体感する瞬間はあるものの、まだまだ基本は「理解する」という段階なわけです。
その段階ではまだまだ真理とは頭で理解するだけの段階で、実際に分かってはいないわけです。
確かに、実のところ高次のアートマンの側からすると全てを最初から見通していて過去現在未来に渡って永劫を把握しているわけですけれども、個としてのこの世俗の自分、いわゆるジーヴァとしての自分、自我としての錯覚としての自分としては真理を把握してはいなくて、単に頭で理解している段階なわけです。
流派に属していたりしていてよく勉強していて、自分は真理をよく分かっていると思っているという人でさえ、実のところゾーンの歓喜にすらまだ至っていないことはザラで、それでいて頭では理解しているものですから「理解」によって真理に至ることができると勘違いしている人が大勢います。まあ、本人に指摘しても他人から言われて納得することはほとんどないでしょうし、指摘するような野暮なことは私はしないのですけど、実のところ、とても多くの人は「きちんと理解するだけで真理に至ることができる」と思っています。それは単なる道徳の世界で、「いい人」にはなれても、真理を悟ることができないわけです。
ゾーンの歓喜に至って、ゾーンの歓喜が安定して静寂の境地に至って、そしてハイヤーセルフの意識に目覚めるところまで行ければ一応はそれなりの達成であるといえますけど、意外にも、ゾーンの歓喜にすらまだ到達していない人がかなり多いわけです。そのような状態ですと頭でっかちになって自分と他人を比べたり足を引っ張ったり、ということがよく起こって、いわゆる宗教対立や、修行者同士の足の引っ張り合いになったりします。
実のところ、ゾーンの歓喜を知ってしまえば他人と比べることなんてどうでも良くなりますし、静寂の境地に至ればある程度の幸せ(制限された幸せ)を得ますし、ハイヤーセルフの意識にまで目覚めることができれば他愛の意識が目覚めてきて奉仕の人生になります。
その過程で、聖典に言われている真理の内容もそれぞれの段階に応じて深く理解することができるようになり、ハイヤーセルフの意識に目覚めることには聖典に言われていることがそれぞれ表現の違いはあれど真実を表現しているということを確かなものとして頭だけではなく体感として理解することができます。