ハイヤーセルフの意識に目覚めれば無念無想ではなくなる

2022-11-20 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

高次の意識が常に動くようになって、そうなれば、もはや無念無想ではあり得なくなります。

それ以前であれば低次の意識、いわゆる普通の顕在意識である思考する心(マインド)が主たる状態ですから、その低次のマインドを停止させて無に至ることで静寂の境地を味わうことができます。段階としてはそれより前にゾーンの歓喜があって、ゾーンの歓喜が安定した後に無念無想の静寂の境地に至るわけですけれども、その無念無想あるいは静寂の境地というのはあくまでも低次の心、低次の意識、いわゆるマインド、思考する心が停止するという状態なわけです。

ですけど、ハイヤーセルフの意識に目覚めると、それは高次の意識ですから、それにも低次の意識と同様に「感じること(見ること)」、「(能動的に対象に向かって)意志を働かせること」という働きがあるわけです。その次元は異なれど、同じように「見る」という意識と「行動(の意思)」という側面がそれぞれあるわけです。

ハイヤーセルフの意識、あるいはヨーガでいうところのプルシャ、あるいはヴェーダンタで言うところのアートマン(真我)の意識に目覚めたならば、もはや、低次の意識が停止しているかどうかは、あまり関係がなくなるのです。低次の意識が動いていようがいまいがハイヤーセルフとしての意識は自由で満ちていて至福に満ちた状態なわけです。ですから、静寂の境地というものはあくまでも中間的な状態で、最終的な悟りではないわけです。とは言いましても、それでも、静寂の境地というものはある程度の目標地点にはなり得て、最終地点ではないにせよ、それなりに高い境地であることには変わりがないわけです。

静寂の境地に達するまでは、まずゾーンの歓喜を目指して自分のマインド、いわゆるアストラル体(それは感情を司る)を浄化します。そうすると次は精神が安定してきて静寂の境地に達します。その状態でもそれなりに人生を豊かに過ごせますので、その人の求めているものが安楽に暮らすことであるならばこの段階で成長は止まります。止まったとしてもそれは本人が求めているものが与えられたということで、自分の意識次第なわけです。ですから、何も悪いことはないのですけど、他人への奉仕やもっと高い境地を求めている人はそこで立ち止まらずにハイヤーセルフに到達します。

そうしてハイヤーセルフに到達したならば、もはや静寂の境地(無念無想)はあっても良いしなくても良いものとなり、一段階高い境地から人生を自由自在に生きられるようになります。