理解だけでなく実際にアートマンに到達することが必要

2022-11-20 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

まず、ゾーンの歓喜とアートマンの至福は別物なのですが、これらを混合している人が意外に多くて、ゾーンで歓喜に達するとそれはアートマン(真我、あるいはブラフマン)の至福だと思ってしまうことがそれなりにあるようなのです。

実際のところ、ゾーンの歓喜というものは一時的なものですので起伏があって、感情に属するもので、感情を司るアストラル領域(アストラル体)が浄化される過程で感情の歓喜が沸き起こるのです。それはそれで素晴らしい感覚で、とてつもない喜びとある種の一時的な至福に近いものを感じますので、見間違えたとしてもそれほど不思議はありません。

それ以上の感覚を知らないのであれば間違うのも仕方がないといえばそうなのですけど、宗教的指導者のようなグルであったとしても時にこれらを混合していて、特に、自分がその境地に達したことがないかあるいは時々にしか達しないようなくらいの人ですと、特にその傾向があるように思います。

ゾーンの歓喜以前の段階にいる場合、それが宗教的指導者(グル)であっても割と「理解が大事」みたいな認識のレベルに留まっていることが多いように思います。そして、本人がゾーンの歓喜にいざ達するまでは弟子たちに対しても同様に教えるのです。まだゾーンの歓喜に達していないような段階ですと真理というものは「頭で理解するもの」に留まりますから、そのように頭の理屈でしっかり理解すればいい、みたいなお話になるのかと思います。

それに加えて、天台の本覚論みたいなものが割と世界にもあって、それはおそらくはインドのヴェーダの伝統の幾つかの流派から派生しているのかなと思いますけど、本覚論の言うところの「誰でも悟っている、元から備わっている」みたいなお話の元ネタがインドにあって、例えばインドのヴェーダンタ学派などを勉強した人が「理解することによって悟ることができる」みたいなお話になっているのかなと思います。

流派によっては「直接的に真理に到達する方法」と「理解によって到達する方法」がある、なんて説明していたりしますけど、実際は前者が最終的な目的地であって、後者は入口なわけです。人によっては最初に前者に到着して後で理解が追いつく、なんてこともありますから一応は両方の道があるといえばそうも言えなくもないのですけど、実際のところそれは稀で、ほとんどの場合は後者のように理屈から入って前者のような直接的な真理へと辿り着くわけです。

日本で13世紀に道元が生きた時代にすら天台の本覚論はあって、道元はそのような本覚論に疑問を呈して修行の道に入ったわけですけれども、今でもなお、インドから本覚論のようなものを輸入してきて(今更ながら)「理解すれば悟る」みたいなお話で真理を理解している人がぼちぼちいるようなのです。道元のお話を読むと、当時から今のような状況、理解すればそれだけで良い、みたいな風潮が今よりも強くあったようです。道元の残した言葉をいくつか見ると明らかにアートマン(真我)に達していてそれなりに高い境地に達している聖者であることがよくわかるわけですけれども、一方で、日本で「理解すれば悟る」みたいに言っている人は、言葉の上では正確さと論議においてなかなか際立ってはいるものの、アートマンには達してはいないように見て取れます。

実際のところ、頭で理解することも最初のうちは大切ですけれども、そのような基礎を基にして修行なり仕事なりを頑張ってまずはゾーンの歓喜に入って、次は静寂の境地に入って、そして高次の意識であるハイヤーセルフを目覚めさせることが大切であって、そうなると真理は単なる理解(だけ)のお話でもないし、ゾーンの歓喜(だけ)のお話でもなくて、その先のアートマン(真我)が目覚めた段階こそがようやく真実の至福の段階であるわけです。

この辺りを理解していない人が、意外に多いのです。理解するだけで悟れるというような13世紀からあったお話を今更ながら信じていたり、そのような真理をインドで勉強したような人であってもゾーンの歓喜をアートマンと混同していたりします。ゾーンに入って歓喜に満ちているグルを見て周囲の信奉者たちもまたグルは凄いと崇めたりしていますけど、そうしたゾーンの歓喜は感情の起伏による喜びであって、それは中間的な段階なわけです。それを補完するように理屈で固めてアートマンはどうこう、みたいなお話をしますけど、確かに説明としてはインドで勉強してきた方は論理も内容もかなりのところで真実に近くてよく勉強しているなと言うことはわかるわけですけれども、実際のところ、勉強を細かくして論理を正しく理解して説明できるようになるよりも、実際に自分がアートマンに達してしまった方がよっぽど話がわかると思うのです。単なる理解や理屈で理解したところで結局は顕在意識の思考する心(マインド)で理解することになって、実際のアートマンの段階における、当然のように「わかる」お話と勉強とは似ているようでいてかなり別物なわけです。