実際、瞑想で雑念は抑え込む必要があるわけですけど、何故か、世間には「雑念は抑え込む必要はありません」という教えが蔓延しているように思います。それはある意味での「慰め」であり、妥協の産物でしかなかったりもするわけですけど、確かに、それは多少の真実を含んではいて「雑念を押さえ込もうとして雑念のことを考えてしまうとエネルギーを与えてしまって余計に雑念が膨らむ」という点は真実ではあるのですけど、だからと言って雑念を放っておけばいいかというとそうではないわけですけど、何故か世間の多くの流派では雑念は放っておけばいい、みたいな不思議な話が蔓延していたりします。
目的は結局、雑念を抑え込むことなわけです。そうして無念無想の状態に一時的にでもなってハイヤーセルフの意識を優位に立たせて高次元への扉を開くのが目的である筈なのに、いつかその目的を忘れてしまって「雑念があってもいい」みたいな慰めの中に安住してしまって雑念の雑踏の中に身を置いて自己肯定の想念によってエゴ(自我)の肯定を延々にし続ける人が一定数いるわけです。
割と一般人であれば瞑想やスピリチュアルな成長を目的としていなかったりして、そういう人たち向けの聞こえの良いお話だ、とも言えます。これは一般人向けの説明であるとも言えて、瞑想する人は「雑念があってもいい」みたいな慰めを言い訳にしてしまわないようにする必要があるわけです。これは人生の目的次第でありますので、スピリチュアルな成長を目的としていないのであったとしても誰でも人生は好きに生きることができてそこには自由があるわけですけど、スピリチュアルな成長を目的としているのならばそのような慰めでしかない言い訳を乗り越えていく必要があるわけです。
確かに、雑念のことを考えすぎると雑念にエネルギーが与えられてしまって雑念が増えるために「雑念を抑え込む」ことが逆効果になることもあると言えばあるのですけど、それは些細なことなのです。その、些細なことを言い訳にして「雑念があってもいいんだ」みたいに(エゴが)自己肯定してしまうのはエゴ(自我)が自分を騙そうとしているわけです。
そのように、瞑想ができてもいないのに「雑念があってもいいんだ」とか思い込ませることは自我の罠なわけですが、他にもよくあるのが、自我が想念で自分を騙して「自分は瞑想ができているよ、できているよ、すごく集中して瞑想できています」なんて言葉巧みにいい気にさせようとしてくるのは瞑想にそれほど慣れていない初心者が陥る罠なわけで、そういう状態が悪いわけではなくて割と誰もが通る道なわけですからそれは通り抜ければいいわけですけど、「雑念なんて抑え込まなくていいんだよ。雑念があってもいいんだよ」みたいなお話も、自我が自分を騙しているに過ぎないわけです。ですから、そんな戯言に付き合うことなしにどんどんと瞑想を進めていけば雑念は減っていくのですけど、そのような(自我が発する)嘘を本気にしてしまうと現在の雑念や欲望などを肯定してエゴ(自我)が優位に居続けるわけです。
自我(エゴ)はそれっぽい言葉で言葉巧みに操ろうとしてきますから、相当に気をつけていて目的に対して真っ直ぐでいないと「これでいいんだ。今のままでいいんだ」という罠にハマりがちなわけです。
■雑念の対処とオーラの調整は対になっている
この種の、「これでいいんだ」系のスピリチュアルというのもあって、それは割と落とし穴なわけですけど、そのような集団に行くと、ちょっと違和感があったりして変な理解しているところを指摘しようものなら言葉巧みな言い訳と共に現在の自己を肯定してきて、一瞬それはそうかなとも思ってしまうわけですけども、割と落とし穴にハマっている人の自己欺瞞でしかなかったりします。この辺りは、状況にもよりますので一般化は難しいのですけど、慰めによって欲望の人生を正当化している人もいて、瞑想の道というのはそのような落とし穴に一時的にハマったとしても少しずつ気づいて本筋に向かっていく道なわけです。
結局、最終的には雑念は抑え込む必要があって、そうしないとハイヤーセルフの意識はなかなか出てこないわけです。慣れれば顕在意識の普通のマインドとハイヤーセルフの高次の意識が共存できたりしますけど、かと言って、最初からそうではないわけで、雑念が優位にあってハイヤーセルフの意識がまだ出てきていないのであれば雑念は抑え込む必要があるわけです。最終的に雑念とか思考は抑え込む必要がない状態になるわけですけど、かと言って、最初から何もしなければ、「雑念は押さえ込まなくてもいい」なんて教えはただの慰めにしかならないわけです。
結局、瞑想の基本は集中であって無念無想というところが根本にあることは変わらないわけで、雑念があるのならまずはそれを抑え込む必要があるわけです。自分のエネルギーが不安定なのであれば抑え込む、ということになりますし、他者からの影響があるのでれば遮断ということもあるでしょうし、あるいは、他者のエネルギーが体内に取り込まれて(取り憑かれて)しまっているのであれば「引き抜く」ということも必要かもしれません。そういったオーラの調整をすると共に雑念は減っていきますし、葛藤や怒りなども静まっていきます。抑え込むとかいうと単純に思考で対処みたいに思ってしまうかもしれませんけど、思考や雑念というのは要はエネルギーあるいはオーラのことですから、オーラの分離や遮断あるいは引き抜くなどしてオーラの調整をすると雑念も相応に変化します。それは別々のものではないのですよね。
やがて、瞑想をするにつれて自分のオーラの周囲に核ができて他者との影響が静まっていき、影響が受けたとしてもすぐに気づいて遮断したり跳ね返したり引き抜いたりということが割と容易にできるようになっていきます。雑念を抑えるためにはオーラの調整も必要なわけです。
そうしてやがて無念無想の状態になり、顕在意識の普通のマインドの思考が治った後にハイヤーセルフの高次の意識が表に出てくるわけです。