単に無念無想になっただけでは文字通り単に何も考えていないだけなのですけど、そうしているとハイヤーセルフの意識が少しずつ優勢になるわけです。
とは言いましても、最初は本当に文字通り思考がなくなって「無」になるだけです。ですから、人によって無なのか空なのかによってその段階が違っており、言葉ですから人によって意味合いが違いますけどその違いはひとまず置いておくとして、例えばここで無と言ったとして、それが文字通りの無念無想だとします。そのような文字通りの意味としての無であれば、それは割と最初の段階なわけです。
雑念と欲望に塗れていて悩まされている人生を抜け出したいと思う場合もあるかもしれませんし、はたまた、ただ単に仕事に集中して一生懸命になっているだけかもしれません。どちらにせよある程度の集中がなされた時にまず達成されるのは無の境地です。その無は一種の安らぎでもあり、歓喜でもあります。いわゆるゾーンの歓喜というのはこの段階で発生して、無念無想になることでハイヤーセルフの意識が多少なりとも流れ込んできて、それが一瞬あるいは短い間だとしても直感として感じられるわけです。
そのような、無としての無念無想、あるいはゾーンの歓喜の段階がまずあります。
その後、次第にオーラが浄化されてきて感性が豊かになり、葛藤が鎮まってくると、無の境地から空の境地へと変わってきます。無の無念無想の場合は文字通り無だったものが、「単なる無ではない、何かがある」状態になるわけです。これがいわゆる空というもので、中空と言うこともあるかもしれませんけど、流派によって言い方は多少は異なることがあったとしても、ある程度の観察と集中とが入り混じった状態になるわけです。流派によってはこれも無というかもしれませんが、中間的な状態なわけです。
この空の段階においては安らぎを経験します。落ち着きが出てきて、人生をそれなりに幸せに幸福に過ごすことができるようになります。普通の人生を豊かに過ごすにはこれでも割と十分だったりもしますが、それはその人が何を求めているかによります。
空は割と中間的な状態で、流派によってはそれが悟りとみなされていたりもしますけど、実際のところ、空はまだ、文字通り、中間的な状態なわけです。中間であることをいいことだとみなしている流派もあったりしてそれが悟りだと言っている流派もありますけど、実際のところ、中間というのは文字通り中間地点なわけで、経由地であって終着地点ではないのです。自分が終着だと思い込んでしまうと成長が止まりますので、そこは落とし穴だったりするわけです。空という経由地に辿り着いただけでもそれなりのものですけど、それでも、やはり中間地点であるわけです。
■ハイヤーセルフは割と別の意識として現れる
その時点でも多少はハイヤーセルフの意識が表れてきていて、少しずつ微妙に意識を感じられたりします。たいていのスピリチュアルはこのくらいの段階を指し示していて、それでも割と普通の人生を豊かに幸せに過ごすには十分だったりします。ですから、特にこれが悪いということはないのですけど、そこはやはりその人の人生の目的、自ら立てた到達地点の目標がどこなのかによって変わってくるわけです。辛い人生から逃れたいと思うのならば終着地点はそこになるでしょうし、意識が高い次元に到達したいと思うのならば執着地点もそれ相応に設定されるわけです。
空の意識というものはまだ高次のハイヤーセルフがあまり表れていなくて、時折、顕在意識が横に避けたり何かに気を取られたりしている時に不意に入ってくる程度の状態なわけです。よくこのことを「無意識の」みたいに表現しますけど、無意識ということは、自分の意思でコントロールできないということです。高次の意識を自分の意思でコントロールできなくて、不意にハイヤーセルフの意識が入ってきて何かが一瞬見える気がしたり聞こえたりします。ですけど、それはコントロールできませんから他のことで気を取られている瞬間に被って聞こえたりして聞き逃したり聞き流してしまったりするわけです。
空くらいの状態ですと、無あるいはそれ以前よりも遥かにハイヤーセルフの意識を聞き取りやすくはなってはいるのですけど、それでも、まだ意識的というよりは無意識の側面が強いわけです。
ハイヤーセルフの意識が表に出てくると、文字通り、ハイヤーセルフの意識が次第に日常生活において優勢になってきます。普段の生活においてハイヤーセルフの意識が常に働いていて、基本的には観察の面が働くわけですが、観察だけでなく能動的な側面としての意志も出てきます。それは言葉にならない言葉だったり、微かな言葉のような言葉でないような意識で示すわけですが、割と微細な感覚なわけです。最初はそれは「観察」として認識されますけど、高次のハイヤーセルフも能動的な意思を持っていて、顕在意識とは割と別に、繋がっていると言えばそうなのですけど割と別の意識として高次の意識は働きかけてきます。
■ハイヤーセルフに自らを委ねる
ハイヤーセルフの意識は、「わたし」という肉体の目を通じてものを見、同様に「わたし」という肉体の耳、触覚など五感を通じてものを見るわけです。それは顕在意識の普通の思考する心(マインド)もそうだと言えばそうなわけですけど、階層が違うわけです。マインドとしての思考する心は肉体にしっかりと結びついていて肉体こそが自分だという感覚および自分の思考や概念こそが自分だという考えに固執する性質があるわけですけど、ハイヤーセルフからすると肉体というのは道具でありますので、「わたし」という道具を通じて世界を認識するわけです。高次の意識というものは別にあるにはあるわけですけど、この地上の三次元の世界を認識するのはこの「わたし」と一応は言われている肉体を通じて行うわけです。
マインドが自分のことを自分だと思うことと、ハイヤーセルフが「わたし」という体を通じて世界を認識するのとでは、かなり違う事柄なわけです。
少なくとも空に達していないとこのことがよくわからなくて、心理学や仏教あるいはヴェーダンタはたまたヨーガ等でもこのことが言われてはいるわけですけど、実感としては少なくとも空くらいに到達しないと自覚できないわけです。
空でこの知識が本当だったのだということを実感し始めるのですけど、その後に、無念無想が容易になってヨーガ・スートラで言われている「チッタ(マインド)の揺らぎ(ヴィリッティ)の停止(死滅)」に日常生活においても静かに安らかに達成できるくらいになる、そのくらいから、自身の中にある「わたし」という立場が、「マインド(自我、エゴ、ジーヴァ)」から「ハイヤーセルフ」にバトンタッチを始めます。
空であっても、まだ、優勢なのは基本的にマインド(自我、エゴ、ジーヴァ)でした。それが、ハイヤーセルフの意識に立場を譲って、ハイヤーセルフが自身の人生を生きるようになるのです。
実際のところ、このバトンタッチが現れる前であったとしてもハイヤーセルフが実は人生を動かしているのですけど、それに自覚的になって理解をするのが空だとして、実際にハイヤーセルフが表に出るのが次の段階なわけです。それは空を超えてヨーガ・スートラの完成に至る頃に起こることで、自我(エゴ、ジーヴァ)の側からすると「ハイヤーセルフに委ねる」ということになるわけですけれども、実際のところ委ねるというよりも、最初から実はそうであったわけですので、その事実に気がついて認める、というくらいのことなわけです。