ゾーンの歓喜および一時的な静寂の境地と言う基礎がないと修行や勉強をしてもなかなか何も変化しない、理解は進む一方で、不思議と何も具体的な変化が起きないのです。一番わかりやすいのがクンダリーニですけど、イダとピンガラの覚醒にしても、このような基礎がある程度あって初めて現れるものだと思います。その基礎は自分が自覚している場合もありますし自覚していない、あるいは、生まれながらに備えている場合もあります。
静寂の境地はそれ自体はまだまだ安定はしていなくても、何かに集中して対象と一体となり、対象のあるサマーディにて対象との一時的な一体感を感じ、ゾーンの歓喜に至ると言う基礎があって初めてクンダリーニとかいうお話になるのであって、ゾーンの歓喜という基礎がなければいくら勉強して修行をしても、何も起きないことが大半なのです。
そのように何も起きない時に、これだけ自分が修行したのだから成長している筈だと自分で自分の状態を見誤ったり、自己正当化のためにエゴが自分を「自分は成長している筈」と言い聞かせて騙すということが起きて、更に成長を阻害させると言ったことが起こります。
言葉や説明というのは三次元的なものに強く紐づいていますから、それは言葉を超えた状態を必ずしも正確に表現できなかったりするわけですけど、それでいて、言葉や論理で勉強をすることで自分のマインドおよび記憶(ヨーガでいうチッタ)が強化されて自我(エゴ)が強まり、そしてその強化されたエゴ(ヨーガで言うところのアハンカーラ)が強情になったりもっともらしく理屈をこねて自己正当化し、成長を阻害する、という悪循環が起こるわけです。
その悪循環を越えることももちろん必要ですけど、越えるためには越えるための素地が必要であって、素地がないのに越えようとしても超えれないわけです。
ですから、スピリチュアルの勉強も良いですけど、まずは基礎になるゾーンの歓喜を安定させる必要があって、それは必ずしも修行やスピリチュアルの勉強である必要はなくて、普段の生活において仕事をするなどして対象に集中してゾーンの歓喜に入れるくらいにまで仕事あるいはスポーツなどに熱心になると良いのです。
そのようなゾーンの歓喜はスピリチュアルの基礎になりますし、必ずしもスピリチュアルを勉強しなくても集中して何かに上達したことは仕事やプライベートにおいても必ず足しになりますし、仕事であればもちろん成果も上がるはずで、生活の基盤も安定するわけです。そのような基礎が生活面においても精神面においても安定し、そのような安定の元でゾーンの歓喜を繰り返すことで感情的なしこりやトラウマが次第に浄化され、平穏な気持ちへと導かれてゆきます。
ゾーンに入る時、対象と繋がる時には自らの奥底が表にまで出た状態になり、対象と繋がることで歓喜に至るのと同時に対象の情報がよくわかる、具体的に理解できる状態になるわけですが、と同時に、自らの奥底と繋がることでトラウマが顕現しやすい状態にもなります。自らの奥をさらけ出すのと同時に、対象と繋がった状態になるわけで、この状態は精神が表に出ていますので周囲からの強烈なショックを受けないように気を付ける必要がある一方で、環境が整いさえすれば自らの奥底と対峙できる良い機会であるわけです。
そのような基礎になるゾーンの歓喜を繰り返すことで浄化が進み、その基礎があって初めてクンダリーニとか諸々のお話が出てくるわけです。