スピリチュアルをする上で理屈というものはどうしても切り離せないもので、ある程度の理解を元に成長していくわけです。ですが、理解は理解としてあるのであって、理解そのものが真理かというとそうでもなくて、理解から始まるという点はあるにはあるわけですけど、どこかでその理解を超える必要があるわけです。
その、超える、というのは、理解を否定するという意味ではなくて、本当の真理というのは理解を超えたことにあるわけですから、実際に、本当に理解という段階をも超えて真理を直接的に知る必要がある、ということです。そうして真理に到達すると今まで理解していたものが違った表層として現れてきますので違った解釈ができるようになりますけど、かと言って、到達する前の理解が必ずしも間違っていたわけでもなくて、かつての理解は、それはそれである面を表しているわけですけど、より直接的に真理を知ることによって、直接的に真理に到達することによって違った解釈ができるようになる、ということです。解釈と言っても、直接的に真理に到達するということそれ自体は言葉を超えていますからそれ自体を言葉で表現できるかというとなかなか難しいものがあるわけですけど、真理それ自体は難しいとしても、世の中にある聖典が述べている真理の表層というものの解釈が本当はどういうものなのか、解釈はできるようになるわけです。
例えば、よくある誤解として、ヨーガ・スートラの最初の方にある「ヨーガとは心を死滅させることである」みたいな訳語は、元々のサンスクリットでは死滅というよりは単に「心(チッタ)の揺らぎ(ヴィリッティ)を鎮めることがヨーガである」と言っているだけなのに、インドの特に知識系の流派やそれに影響を受けた日本の知識系の人たちが「心を死滅させることはできない。心を止めることはできない。アートマンはサット・チット・アーナンダなので意識は無限大で満ちていて過去現在未来永劫存在している無限の意識なので無くなることはない」みたいなことをことしやかに語っているわけですけど、実際のところ、ヨーガ・スートラではチッタ(マインドの記憶)のことを言っているのであってアートマンのサット・チット・アーナンダのことは言っていないのですけど何故かチッタがアートマンと結び付けられて批判されたりしているわけですが、実際には、ヨーガ・スートラで言っているのはただ単に「記憶(チッタ)の揺らぎ(いわゆる雑念)をなくして行きましょう、それがヨーガです」と言っているだけなのですよね。それはヴェーダンタ学派にとってもアンタッカラナ・シュッディ(内面の浄化)として同じことが言われているわけですけど、何故か、表層のことを持ち出して批判していたりするわけです。雑念を止めることでその奥底にあるアートマン(ヨーガではプルシャ=純粋精神)が出てくるわけですが、これまたヨーガ系もヴェーダンタ系も同じことを言っているように思えるのですけど何故か本人たちは表層の違いでお互いに批判し合っていたりします。全員とは言いませんけど、そういう人たちが特にインドには意外にぼちぼちといるわけです。日本ではそれほど目立ちませんけど、お互いの流派を認め合わない、仲が悪い、というのはぼちぼちあるように思います。
実際に本人が真理に到達すれば、このような表層の違いなど関係なくなり、同じことを言っているということがわかるようになるのです。