この段階を突破する必要があるわけですけど、これはなかなか厄介なもので、あたかも「それっぽい」理屈で言いくるめてきたり、時には、せっかく指摘してきた人に対して現状維持のための反論で言い返して自己正当化および「いい人」を装うことがあります。
これは、ある種のスピリチュアルな落とし穴といえばそうなのですけど、おそらくは誰しもが通る道で、最初は理屈から入って、次は理屈を突破する必要があるわけです。ですから、この段階に留まっていては成長もそこまでなわけですけど、かと言って、この段階が悪いものでもなくて、中間的な段階なわけです。
とは言いましても、この中間的な段階の人は理屈もそれなりにそれっぽくまとまっていて、周囲からの批判や指摘を受け付けませんし、言ったところで自己正当化およびあたかも素晴らしい人かのように振る舞いますので、基本的には放っておけばいいわけです。この種の人に指摘するだけ無駄と言いますか、指摘したところで自己正当化および自分が「いい人」として振る舞うための「だし」に使われたりしますので、指摘しても徒労に終わるわけです。
この種の、せっかく指摘したのに徒労に終わってしまう、というパターンはスピリチュアルでよくあって、大衆というものは一見すると素晴らしそうなものに飛びつきますから、それに異論を唱えると大衆から目の敵にされたりしてしまうことすらあります。損な役割なわけですね。
例えば、スピリチュアルで「何でも好きにしていい」みたいなのはよくある間違いなわけですけど、その間違った考えというものは、確かにアートマンとかブラフマンとかの階層に行けば間違いも何もなくて全ては正当化されるわけですが、我々は相対的な世界に住んでいますので善悪や正しさ・間違い、というものは存在しているわけです。「何でも好きにしていい」みたいに言われると大衆は喜びますけど、それは「良いも悪いも無関係に現実化する」ということですので、良くないことを願えばその現実が実際に現れてくるということですから、自分あるいは他人、誰かが苦しむわけです。それのどこが素晴らしいことなのでしょうかね? ですけど、大衆はそのようには考えなくて、何でも好きにしていい、みたいなパッと見で分かりやすい意見に飛びつくのであって、そこまで深く考えないわけです。そうして、今のこの世界の地獄のような側面が生み出されているわけですけど、地獄を経験しないような側面だけを経験する人も存在していて、他人に地獄を与えて自分は天国(に見える)に暮らすための世俗的なスピリチュアルな手法と言い訳が割と多く存在しているわけです。まじない、ですとか、術、というのはこの分類ですね。
実際のところ、そのような善悪や良い・悪いという階層は相対的な段階ですから突破する必要があるわけですけど、これはなかなか他人から指摘するのは難しいように思います。この段階というものは、自分から気づいて自ら突破しなくてはなかなかこの善悪のループから抜けられないわけですけど、他人から指摘しても聞く耳を持たない段階の人たちが突破しないといけないわけですから、なかなかそれは難しいわけです。
術とか正当化、言い訳、まじない、という相対的な段階から、言葉を超えた段階へと飛躍するには壁があるように思うのです。その壁はなかなか見えにくいわけですけど、方向性というのは割と単純で、単純だからこそ見過ごされたり当たり前だと思われてスルーされてしまいがちですけど、それはヨーガ・スートラでも言われているように(いわゆる)「心を無にする」ことであり無念無想ということですけど、その前の段階ですと言い訳ですとかで自我(マインド)が自己正当化しますけど、心を無にして無念無想になってその先にあるハイヤーセルフの意識が表れる段階になると、もはや自我(マインド)の自己正当化は機能しないわけです。自我の自己正当化やそれっぽい理屈を超える段階が、無念無想の先にあるハイヤーセルフの意識なわけで、そこには飛躍があるわけですけど、スピリチュアルで自己正当化や「これでいいんだ」とかいう理屈で真実から目を背け続けているのはその相対的な段階に留まっているということであって、とりあえずの目標としてはそのような自己正当化も含めた言い訳をやめて(マインドが)無念無想になって、マインドが静まって雑念が出なくなってくるとその先の階層である(ヨーガで言うところの純粋精神である)プルシャ(あるいはアートマン、意識)が現れてくるわけです。その純粋精神は最初は「見るもの」として現れてきますけど、実際にはそこには「働きかける動き」としての側面もあって、マインドよりも上位の意識なわけで、それは「見る」「意図する」と言う側面があります。その段階には言い訳とか自己正当化とかはなくて、単に意識があるだけなわけですけど、その段階になると、それ以前の人とは話が合わなくなってくるわけです。だから、あまり話すこともなくなってゆきます。
言葉を超えた段階というものは表現が難しく、それは「ある」としか言えないものだったりするわけですけど、それは隠していたり隠喩ではなくて、本当、文字通り「ある」というものだからこそ「ある」と言っているわけです。意識がそこら中に満遍なく普遍で存在している、というのは、本当に文字通りその通りなわけですけど、その段階に到達するまではそれに気が付かないわけです。あるいは、到達する以前は単なる理屈や理論、理解でしないわけです。ですけど、実際に到達すれば意識がそこら中の空間に、目に見えなくても、単なる空気しかないように見えていた目の前の何もない空間であっても意識が「ある」ことに気づくというか、気づくまでもなく、あるものは「ある」のですから、当然のように(特別に意識しなくても)「ある」というだけのことなわけです。
そのような段階にまで突破する必要があるわけですけど、多くの場合、自己正当化や言い訳のためのスピリチュアル、という段階に留まっているように思います。