今となっては、そうも思えるのです。実のところ、途中の道なくしてサハスララに到達はできず、途中の道はもちろん必要なわけですが、クネクネ曲がった道を歩んでサハスララに到達しつつあるのかなと思います。
ヨーガやクンダリーニの世界ではサハスララが(一旦の)到達点と言われていますけど、今、少しだけ開き始めてきて、そう言われている意味も自ずと納得できます。
おそらくは、サハスララとは言っても次元の違いによりいくつかあって、肉体に近いところでのエネルギーとしてのサハスララもあれば、高次のサハスララもあるのかなと思います。
普通にイダとピンガラが覚醒してその中間の背骨沿いに登る、いわゆる普通の、肉体に近いところでのクンダリーニのエネルギーとしてはサハスララに達することもあれば、その手前のアジナに到達して何らかの能力あるいは至福、はたまた静寂の境地を味わうこともあるかと思います。
一方、それにて自分が浄化してきて、アナハタから繋がる、一体になるところのハイヤーセルフの意識が顕在化してきた後に再度上昇するクンダリーニは、一応はそれは言葉としてはクンダリーニと呼んでもそう間違いではないのですけど、クンダリーニとしての肉体に近いエネルギーに加えてハイヤーセルフのエネルギーも含んでいると思うのです。
その、ハイヤーセルフとの混合でもあるクンダリーニのエネルギーがサハスララに到達することで、いわゆるクンダリーニとハイヤーセルフ、それらがサハスララで融合、あるいは、そこで高次の世界と繋がって、新たな局面に移るように思うのです。
それは単なるクンダリーニをサハスララに上げるだけのことではないし、ハイヤーセルフと「交信」することでもなく、肉体のクンダリーニを基礎として、ハイヤーセルフと一体になった状態で意識の次元が上昇するように思うのです。肉体は消えることがなくて肉体はそのままですが、意識としては次元上昇すると言ってもそう間違いではないのです。
今までのアナハタのハイヤーセルフの次元であってもそれなりに高次元で、そこでは創造・破壊・維持の意識が働いていたわけですが、それが安定してサハスララにまで割と安定して満ちるようになってきた今、かつて偉大な聖者が言っていたことの本当の意味が分かりつつあります。
サハスララはまだ安定していなくて、ほんのさわりの意識だけでもこの状態ですから、まだまだ先があることがわかります。それでも、ここがおそらくは人間としての意識と神意識の境目で、いよいよ「自分」というものがなくなるのかな、という気も致します。