至福という言葉すらここに来ると言葉足らずで、サハスララに至ると至福という言葉にまつわる「感情」という面は抜け落ちて、ただただ、満ちている、エネルギーが充満している状態が残って、それが高まっている状態になるわけです。
至福という言葉に相応しかったのはその手前の段階までで、多少なりとも満ちていただけれどもここまで満ちていなかった状態から瞑想をすることで満ちた場合に至福と言えるほど充足していたのであって、常に満ちている状態に次第に近づくにつれ、(それは日々の調子の違いはあれど)至福と言えるほどの違いのある瞑想を通り抜けて、瞑想においても至福が割と当たり前、(というと語弊が多少はあるのですけど)、至福の満ちている状態が日常生活においても割と長く続くようになると感情の面でも安定してきて、(一時的に落ちることはあっても)基本的にはいつも満たされている状態が続くようになるわけです。
瞑想で一時的に至福の状態に引き上げるからこそ至福という面がクローズアップされるわけで、いつも至福のような場合は、わざわざ至福ということもなくて、いつも満たされているわけですから、至福というよりも、ただただ満ちている状態、と言った方が適切なわけです。
至福かと言われれば、まぁ、そうなのですけど、至福というと満ちているという意味も含まれてはいますけど感情の面の意味もあって、感情として至福なのは、それはそうなのですけど、いつも割とその状態ですと、わざわざそのことを至福だと言うかというと、自分では至福とはわざわざ言わないわけです。至福というと一時的、というようなニュアンスが多少は含まれてしまうように思いますけど、継続的な至福、というとわかるようなわからないようなお話になってしまいますし、そんな表現をするくらいなら、ただ単に、満ちている、と言った方が自分としてはしっくり来るわけです。
とは言いましても、ただ単に「満ちている」と言われても「なんのこっちゃ」というお話になるでしょうから、ひとまず説明としては「至福」ということにしておいてもいいと思います。ですけど、至福が割と当たり前になるとわざわざ至福など言わなくなる、というお話です。
この状態は、ヴェーダンタでアートマンの説明が該当していて、アートマンはサット・チット・アーナンダで、アーナンダは一般的には至福と訳されていますけど本来のサンスクリットの意味は「満ちている」ということですので、これも納得できます。サットは存在で過去現在未来に渡って永遠であるという意味で、チットは意識のことですので、永遠の意識が満ちている、というのがアートマンの意味であり、アートマンを日本語に訳すと(本当の私である)真我のことですから、本当の私というのは永遠の満ちている意識、ということになります。
サハスララに至ると、そのアートマンの意識が本来の意味においてその通りで正しい表現であるということがわかるわけです。