キリスト教のことではなく、キリストという人あるいは聖人のことでもなく、スピリチュアル用語としての、意識状態としてのいわゆるワンネスであるキリスト意識が次の私の目標だと思うわけです。今の私の状態とキリスト意識の間には明らかに距離があって、今の私の状態ですと、上の方にキリスト意識があることは認識できますが、今の状態とは多少の乖離があることがわかります。
サハスララで満たされる感覚はあくまでも個としての割と最終地点であるように思うわけですが、この先は、他者あるいは集合意識としてのワンネスである、いわゆるキリスト意識のようなところが次の目的地であるように思うのです。
キリスト教ではあまりこのような表現はしなくて、スピリチュアル系で言われている用語、あるいは新興のプロテスタントの一部派閥では言われているようですけど私の言っているキリスト意識とは宗教あるいは聖人その人そのものとはあまり関係がなくて、いわゆるワンネス意識のことです。キリスト意識というと普通の人は宗教あるいは聖人のことかと思われてしまうかもしれませんけど、スピリチュアルで言われているキリスト意識というのはとある段階の意識状態をそのように表現しているのであって、そこに宗教としての信仰とか聖人の崇拝という意味は含まれていないわけです。
その、ワンネス意識であるキリスト意識が次の目指すところであって、サハスララに到達して個としては満ち足りた状態になったとしても、まだまだワンネスのキリスト意識にはほど遠いようです。とは言いましても少し距離があるところに見えてはいますので、ようやく見えてきた、と言ったところでしょうか。
サハスララで満たされるのはアートマンとしてのサット(永遠の存在)・チット(純粋意識)・アーナンダ(満ちている、至福)ですが、それはあくまでも個としてのお話で、次は、全体あるいは集合意識としてのブラフマンが目的地なのだと思います。
ヴェーダンタではアートマンの次は一飛びに「全体」としてのブラフマンということにはなっていますけど、そうは言いましてもこの宇宙全体にいきなり飛躍するということはないと思いますので、一応は概念としてはそういうことではありますけど、あくまでも、ある程度の範疇の中での全体、ということなのかなと理解しております。例えば地域性だったり民族あるいは国、土地、などという範囲ですね。おそらくはそのように段階を踏んで広がっていくのかなと思います。
今はまだ「個」としてのアートマンが開けただけで、それはそれとして充実はしているのですけど、段階を踏んで「全体」へと近づいていくには、まず、ワンネス状態であるキリスト意識を知る必要がありそうです。
今までも一応はワンネスと言えなくもない状態は段階的に経てきたわけですけれども、サハスララを超えてキリスト意識としてのワンネスが次の目的地であると思うわけです。