普通にハイヤーセルフというと1つのように思われるかもしれませんが、最近は、割と中間的なハイヤーセルフの意識がいわゆる普通の「私」としての意識になってきておりますので、更に上の、更に高次元のハイヤーセルフの意識のことを認識するようになりました。
元々、普通の論理的思考を司るいわゆるマインドとしての自己・セルフ・自分、というものに比べるとハートで繋がったセルフであるものはハイヤーセルフなのはそうなのですが、更に上があるわけです。今の状態で「自分」というと、元々いわゆるガイドでもあり分かれたものであったが今は一体となっているハイヤーセルフのことを今は「自分」と言っているのであり、それはヴェーダンタで言うところのアートマンと一応言うこともできて一応は日本語で真我ということもできるにはできるのですけど、ヴェーダンタで言うところのアートマンあるいは真我という言い方は、もっと上の次元のことを意味するように思うのです。
少し前まではこの違いをあまり認識できていなくて、ハートで繋がるハイヤーセルフがアートマンと認識しておりましたが、どうやら、ハートにあるハイヤーセルフは、ミドルセルフとでも表現した方が適切かもしれない、中間的な意識のように思うのです。
ハートで繋がるいわゆるアートマンはアートマンというよりも、ロウアーセルフ(下位のセルフ)とハイヤーセルフ(=アートマン)を繋ぐ中間的なもの、例えばミドルセルフ(中間的なセルフ)と呼ぶ方が割と適切なのかもしれません。
そうは言いましてもロウアーセルフであるところのいわゆる普通の思考するマインドから見たら上位であることは確かですのでハイヤーセルフというのもそう間違いではなくて、世間で言われている意味におけるハイヤーセルフは未だ自分と一体になっていなくて「分かれている」セルフの状態のことを意味する場合がほとんどかと思いますので、であれば、そう拘って表現を区別する必要もないのかな、という気も致します。
ただ、きちんと表現するのであれば、以下のようになるように思います。
・マインド(思考する心)がロウアーセルフ
・ハートの創造・破壊・維持の意識がミドル・セルフ(いわゆる一般的なアートマンあるいは一般的なハイヤーセルフ)(通常は、まだ一体となっていない段階においては、自分とは少し離れた意識として認識される。その後、肉体と重なって一体になる)
・サハスララから繋がる「満ちている」意識が(本当の意味での、ヴェーダンタで言うところの)アートマン(あるいは更に高次のハイヤーセルフ)
・ワンネス意識あるいは(宗教ではなくスピリチュアル用語としての)キリスト意識が(ヴェーダンタで言うところの)ブラフマン(ハイヤーセルフと言えなくもないがある程度の集合意識であるので、セルフとしての意味を超えたもの)
このように分類するのであれば、ハイヤーセルフという言葉は割と言葉足らずで、高次元のハイヤーセルフとも言えなくもない意識、それは本来の意味におけるアートマンあるいはブラフマンということですが、そのような高次元があるのだと思います。