道徳や一般常識で「他の人のことを理解しましょう」などと言われていますけど、理解すれども同意せず、という姿勢が基本なわけです。同意というのは本当に納得した時だけで十分であり、理解できない場合は理解と解釈を保留すればいいだけのことで、これまた「同意」する必要はないわけです。この世知辛い世界では、この種の言葉は他人に同意させることでエネルギーを奪うための、都合の良い、エネルギーヴァンパイアのための言い訳にもなってしまっているように思います。確かに(大枠として)「理解」することは必要だとしても、その場合であっても必ずしも他人の意見に「同意」する必要はないのです。理解はしたとしても、感情的に同調する必要もないわけです。
ほとんどの場合、特にスピリチュアルを勉強していなかったり欲望あるいはストレスにまみれた生活をしている場合には、人は自分の姿を他人に「投射」して生きています。これは精神分析でも言われていることと同様で、他人の中に自分の姿を見つつも、それが自分の姿だとは気がつかないのです。ストレスまみれで生きている人は「周囲の人が自分のことを笑っているように思う」だとか、「自分のことを馬鹿にしているように思う」だとか言われていますけど、実際そうで、そのような状態が「投射」です。
実際には、その投射というのはスピリチュアルが成長した後も続いて、ある程度のスピリチュアルな成長がなされると、他人が全て「悟っている」かのように感じられます。これもまた、「投射」の機能です。
その、「投射」が、普通の人の場合はストレスにまみれていますから、他者に対してあれこれ不満や問題点を指摘したりしてきますけど、実際のところ、その指摘というのは本人の姿だったりするわけで、その意見に同意する必要はないのです。例えば学校生活や会社の付き合いで色々と指摘されたとしても、それが「投射」で色々と指摘してきている場合、そのような意見に同意する必要はないのです。
それは最近の言い方をしますとモラハラということですけど、他人に投射して生きている人は、自身の姿を他者に投影した上で指摘をして、その指摘に対して指摘相手が同意しないと「どうして理解できないのだ」「どうしてこんなこともわからないのか」などとしつこく圧力をかけてくる場面もこの世界では時々ありますけど、投射しているだけなのですから理解できなくても当然であるのに、投射している側からすると「自身の姿が他者に投影されている」ということにすら気がつくことができていないわけです。自身のストレスあるいは欲求を他者に投射した上で他者に同意を求める人に付き合ってしまうと、めんどくさいことに巻き込まれてしまいます。
学校生活あるいは社会生活においてモラハラの意見に「同意」してしまうと相手のエネルギーを受け取ってしまい、本来はその本人が解決しなくてはいけないエネルギーが他者に移ってしまうわけです。指摘した方は本当は「投射」であるのだから本人の問題であるのにも関わらずエネルギーが移ったが故に本人は楽になり、同意して受け取ってしまった側からすると本来は自分のエネルギーではない問題を抱え込むようになるわけです。エネルギー・ヴァンパイアであるだけでなく、ストレスの解消を他者に押し付けているわけです。押し付けられた方からしてみれば、いい迷惑なわけです。ですから、最初から相手にしないのが良くて、要は「同意しない」という姿勢が大切なわけです。
これは、同意していなくても霊媒体質の場合はガードが弱いためにオーラの揺らぎから入り込んできますけど、オーラのガードが強い場合でも意思によって言いくるめられて「同意」してしまうとエネルギーを受け取ってしまうわけです。
モラハラをしてくる人は執拗にネチネチと言い寄ってきて時に怒鳴り声をあげたりして威圧してオーラのガードを突破あるいは自分からガードを下ろすように強制してきますから、可能であればそのようなモラハラからはすぐに離れることが第一ですが、離れられなかったり、あるいは、一時的なものであったとしたら、とにかく「同意しない」でやり過ごすことが大切なわけです。
同意しないが故に酷い扱いをされたりすることもありますけど、そのようなモラハラをする人は仲間が離れていきますからやがて孤立します。放っておけばいいのです。
スピリチュアルな人はとにかく「助けよう」としますけど、本人が自覚していなければ助けることはほとんど不可能で、特に、他者に対して「投射」をしてイラついたり怒りを感じているような人に対しては、そうそう対処ができないわけで、そのような人に対してできることは「同意しない」くらいしかないわけです。見ているものが違いすぎて、もはや話もできないのですから、仏教やヨーガスートラで言われているように「道徳のない人は、相手にしない」というのが正しいわけです。