基本は、死後にしばらくあの世(いわゆるアストラル界)を漂った後、昇天してグループソウルに合流します。そうしてグループソウルから再度分霊が作られ、あの世にそのまま生きたり、地上に転生したりします。実際のところ、いわゆるあの世というのはそれ自体が普通の世界および人生の舞台になっていて、この地上のように固定化されていないものの、割と似通った世界でもあります。人(魂)によっては、グループソウルに合流することなくあの世をそのまま長い間、生きたりします。あの世から見るとこの世(地上の三次元世界)の方が割と特殊に見えるわけで、世界が違うだけで、それぞれ、独自の世界に生きていると言えます。
人によっては魂が綺麗でほとんどあの世を漂わずにそのまま昇天してグループソウルに帰還しますが、大抵の場合、そこまで魂が綺麗ではありませんので、あの世を漂うか、あるいは、高次の部分だけ昇天してグループソウルに帰還して、他の部分はあの世(アストラル界、幽界)に留まり、そこで割と普通に生活したりします。あの世はぼんやりとした世界で、そこで仲の良かった人と一緒に過ごすこともありますし、そうではない時もあります。仲の良い夫婦やお友達と楽しく暮らせる世界でもあります。昇天はすぐにはできない場合でも、こうして楽しく暮らしていけばやがて体の光が増して、文字通り体から光を発するようになって、空中に不意に浮いて上の方から降りてきているピカーという光に導かれるように登って行って、一緒に暮らしていたみんなに見送られるようにして昇天します。これは、キリスト教とかスピリチュアルで言われているイメージと割と同じで、光と共に上昇していって昇天するわけです。
そのように、あの世にしばらく留まる場合もありますが、基本は、死後はやがて昇天してグループソウルに帰るわけです。そして、グループソウルの中に溶け込んで合一します。その状態でもコアのようなものは残りますので、また分霊を作るときはそのコアを元に作られますが、時間が経つにつれてコアも同化していってよくわからなくなります。
そのグループソウルは個々の魂と思考の塊でもありますが、全体としての意思も持っています。そのグループソウルが「意図」をすることで分霊が作られ、時にアストラル界の魂として生きたり、はたまた、地上に転生する場合もあります。
地上に転生する場合、その目的に応じて単体で転生する場合もあれば、自分と同じ分霊をガイドあるいはハイヤーセルフ(言い方が違うだけで実態は割と同じ)として引き連れる場合もあるわけです。
自分の魂も、ガイド=ハイヤーセルフも元は同じグループソウルでありますから、親和性があるわけで、ガイドとして、いわゆるスピリットとして、アストラルの体を持ったままいた方が融通がきく場合も多々ありますので、融合せずにガイドとして動き回れる状態にいるわけです。一方、それはガイドとしてだけでなくハイヤーセルフという側面を持っていますから、必要に応じて、自分の元々の魂と融合することもできます。
これは時と場合によるようで、必要性に応じて異なり、どうやら、必ずしもハイヤーセルフと合一するわけでもないようです。私の場合はハイヤーセルフと合一して一体になりましたが、どうやら、もともとのオーラが十分にあって、合一しなくても使命を十分に果たせる場合とか、あるいは、ガイドとして自由に動けるスピリットのままでいた方がやりやすい場合は合一せずに分かれたままでいるようです。
とは言いつつも、一応は、最初は分かれているハイヤーセルフ(=ガイド)と合一するということを基本形として捉えても良いように思えます。
それに加えて変則的な場合も多々あって、グループソウルから分霊として分かれた後、更に2つに分かれて片方が受肉し、もう片方はスピリットのままガイドとして導く、という場合もあります。ですので、繰り返しになりますが、スピリチュアルが成長する過程で必ずハイヤーセルフ(=ガイド)と一体になるわけではなく、分かれていた方が都合が良い場合はずっと分かれているわけで、最初から決めている場合もあればそうでない時もあり、文字通り、時と場合によるわけです。ガイドが出現する時期も人によって異なるわけで、最初から分かれていてずっとガイドになって一生を過ごす場合もあれば、最初からいた上で途中で合一する場合もあり、一方、最初はガイドはいなかったものの、必要に応じて新たにグループソウルから分霊が作られた上で地上にいる個人と合一(ハイヤーセルフと合一)という場合もまたあるわけです。
こうしてみますと、前世とか、過去生というものはグループソウル全体としての経験の融合であって、個人のものではないということがわかります。そもそも、「私」という個人が今のこの肉体だけに縛られているという考え方ですとこのあたりは理解しにくくて、生まれる前はもちろん、生まれた後も有機的に魂の分離と結合を繰り返すわけです。とは言いましても分離と結合がしやすいのは死後の魂の状態ですから生まれた後は割と同じ魂を有する場合がほとんどなわけですけど、必要に応じてハイヤーセルフとの融合(グループソウルからの分霊との融合)が行われたりするわけです。こうなると、もはや、「わたし」という存在がこの世ですら同一とは言い難くなったりするわけです。もはや「わたし」など存在しない、と考えた方がスッキリすることも多く、実際、実態はそうで、この肉体に縛られた私という概念(ヴェーダンタでいうところのジーヴァ)は、理屈だけでなく、本当の本当にそれは幻想の私という概念に過ぎないものであることがわかります。
ヴェーダンタの問いかけ、あるいは、ラマナ・マハリシの問いかけにあるように「私とは誰か? 私とは何か?」という問いの答えが、ここにきて重要性を帯びてきます。
普通の人は自我としての私、いわゆるジーヴァを私と思っているわけですが、文字通り、寸分の疑いもなく、自分はジーヴァではない、と感じられて、自分は(ヴェーダンタで言う)アートマンである、あるいは、ハイヤーセルフである、ということを本当の意味で感じられると、もはやそこには「個」としてのジーヴァとしての自我の感覚はほんの少ししかなく、ほぼ8割から9割がアートマンあるいはハイヤーセルフの意識となるように思うのです。
理屈から言えばジーヴァとしての私の感覚はゼロの筈ですが実際のところこの地上を生きているわけですから否応にもジーヴァとしての自分を保持するしかなく、常に他者との違いを意識して気をつけて生活をするわけですからジーヴァとしての感覚は保持する方が良くて、この段階になると、気をつけていないとどんどんとジーヴァとしての自我の感覚がなくなっていきますから日常生活を送る上ですれ違いが多くなってきてしまい、割と意識して、気をつけて2割はジーヴァの感覚を残しておいた方がいいかなと思うわけです。
ですが、そのような日常生活の制約を除けば、心の中では自分はアートマン、自分はハイヤーセルフ、と言う自覚が増してきていて、そうなると、転生のこともアートマン主体、ハイヤーセルフ主体で考えられるようになりますので、グループソウルの分霊としての私がここにいる、という理解が正しいものであることがすんなりと受けいられるようになります。