胸におられるアートマン(真我)を崇拝する、と言っても良いと思います。この、大事な神聖なアートマンを大切に致します。
このアートマンは宇宙でもあります。胸の内に宇宙があります。
このことは、スピリチュアルやヨーガでよく言われることではありますが、ここに来るまで実感することはありませんでした。胸の内にアートマンがいるとか、胸のアートマンが宇宙だとか、言葉で聞いても「そうかな」と思うくらいでしたが、今は、「確かに、これは宇宙だ」と思うようになりました。
思えば、子供の頃はこの感覚があって、しかし、周囲の環境や辛い出来事が長らく続いた後、次第にこの感覚から落ちてしまい、エネルギーヴァンパイアの餌食になってしまっていたように思います。エネルギーが高い人は周囲からの格好の獲物にされますので注意した方が良いということかなと思います。
この、胸の内にいるアートマンは繊細で、それ故に、守る必要があるように思います。神聖なアートマンを、崇拝するという表現に支障がなければそう言っても良いですし、ただ単に、大切にすると言っても良いですけど、どちらにせよ、この神聖な胸のうちの感覚を守っていく姿勢が大切のように思います。
おそらくは生まれながらにこれを持っている人とそうでない人がいて、最初からこれを持っている人は当たり前のように思っているかもしれませんけど、世間には、この神聖な感覚なしに生まれている人もそれなりにいるように思います。この感覚がない人、あるいは人生の途中で見失ってしまった人は、アートマンを見出すことが人生で神を見出すことに等しいように思います。
神とは外にいるわけではなく内にいる、という、割とよく聞く言葉は、文字通りそうなのであって、比喩ではなくて、本当にアートマンが自分の内にいるからそうなのだという、文字通りそのままの意味なのだと今は思います。
瞑想をすると、サハスララに空気の圧力のようなもの(いわゆるプラーナの集まり)ができてきて、その空気が体の軸に沿って少し細い喉のところを少し勢いよく通ってハート(胸)の奥のアートマンのおられる小部屋までするりと入っていきます。これは、オーラと言っても良いですし、光、と言っても良いと思います。胸の内におられるアートマンが(ヨーガで言うところの)プラーナを取り入れているのかな、と思います。
そうして何度もプラーナを(胸の内の)アートマンが取り入れていると、やがて、光が強まり、胸のハートの周囲にほんわりとしたオーラが広がっていきます。オーラが多少の熱感と共に光のように放射され、アートマンが元気になって行くのを感じます。
アートマンが嫌がることはしたくない、という気持ちが生まれてきます。
スピリチュアルやヨーガ、あるいは各種の教えで「体はというのは神様が宿る神聖な場所」ということはよく言われているわけですけど、これもまた比喩ではなく、文字通り、そうなのだと今はわかりますし、それ故に、神聖なるアートマンが嫌がることは(肉体としての)私はしたくありません、という気持ちが生まれてきます。
瞑想するにつれて顕在意識が次第に次元を上げてきたわけですけれども、それでも、この神聖なるアートマンそのものとは距離があって、アートマンを崇拝する、という気持ちが体の顕在意識の方には残っているようです。
最初はかなり低い次元の意識(いわゆるジーヴァ)から始まるわけですけど、そこから、胸の奥で神意識(あるいはハイヤーセルフ)のようなものと繋がって多少は意識の次元が上昇したように思っておりましたが、ここで出てきたアートマンは更に次元が上で、多少ながら上昇してきた顕在意識から見ても、崇拝の対象になるくらい神聖なもののように思います。
これはべつに教義でそう言っているわけではなくて、聖典やスピリチュアルな本でこのようなことを読んでも「そうなのかな」と思うくらいでしたけど、ここに来て、「あぁ、あれは本当だったのだ」と思うに至った次第です。信仰というものはそれなりに必要だと思いますけど盲目的なものはよくなくて、わからないものはわからないとして一旦判断を保留にする姿勢も大切で、今回のことはその種類のものでしたけど、ここに来て、それは文字通り本当だと理解するに至った次第です。