本山博先生がよく言われることに、アストラル次元の体験は色や形、匂いがあると言います。一方、カーラナ次元においてはあまり色はないと言います。
アストラルの場合は生々しくて気持ちが良かったり悪かったり感情的な起伏が出てくるが、カーラナ次元ではより大きな、清いものを感じるという違いがあるそうです。
補足ですが、本山博先生はカラーナと言いますがサンスクリットの発音的にはカーラナで、同じことです。
個人的な体験と結びつけるならば、アストラル次元での一致(三昧)は、いわゆるゾーンに入ることで「対象」と一致する時の歓喜の感覚がこの内容に似ているように思います。仕事や趣味などをする上でなにがしかに収集した時に湧き上がる歓喜はアストラル的な一致であると言えると思います。
一方で、よりスピリチュアルな体験はもっと純粋で清いもので、それは白い光のように感じられるということだと思います。
内容的に、おそらくは単純な二段階ではなくてもっと階層的になっているように思うのです。少しずつカーラナの次元に近づいてきていて、感情というものからひとつ抜けたところに、今までも段階的に抜けてはきていたわけですけど、ここでようやく「抜け切る」という状態になりつつあるように思います。
サハスララが日によっては状態が十分に開いていたりそうでもなかったりするわけですけど、サハスララが十分に開いている日であれば感情的なものに左右されずに「雲の上」の意識状態を保っていられます。おそらくは雲の中がアストラル世界で感情や歓喜に縛られた世界で、雲の上が透明なカーラナの世界なのかな、という気もいたします。
その基準としてサハスララがあって、きちんとサハスララが開けば雲の上を低空飛行していて十分に清らかな状態でいられて、そのうち、やもすると雲の中に入ってしまったりもしますが、瞑想をすることでまた雲の上に出られて静かな世界に再度上がれるように思います。
カーラナの次元に意識が上がったからといって物理的な体の方にはそこまでの変化はなくて、本山博先生の著作を見ると様々な超能力が書かれていたりしますけど、私にはそういうのはないですね。一方で、次の段階に至るためにはカーラナの次元までの力や能力がいったんは消える必要がある、ということですので、あまり気にすることもないのかもしれません。ヨーガでも、基本は、能力的なものを求めない、となっていますので、能力がなくても問題ないと言えます。転生を繰り返すうちに、最初のうちは普通に能力が出てきますから、能力を使いこなす、という段階はどうしても必要だと思います。そうして、やがて、能力を捨てて、更なる高次元へと進むのかなと思います。