「ありのままを受け入れる」ですとか「ワンネス」とかいうお話は覚醒まで行けば「簡単なこと」ですけど、そうなるまでは簡単ではないわけです。
指導者の側すらもその気になっているだけの場合もあれば、指導者の側はある程度の覚醒に至っていてそのように言っている場合もあります。どちらの場合にせよ、言っている側は割と本気でそう思っていて、実際その通りであったり、あるいは、その気になっているだけだったりしますけど、どちらにせよ、この種のお話をしても、覚醒以前の人にとっては「なんのこっちゃ」となるか、あるいは、「その気になる」だけだったりします。要は、こう言っても通じないわけです。
ここで言っている覚醒とは、悟りの一番最初の初期段階あるいはそれ以降のことを指しますけど、具体的には、ヨーガ・スートラの最後に出てくるダルマ・メガ・サマーディだったり、禅でいう大悟徹底あるいは金剛定を超えた境地だったり、密教での光明との合一、はたまたスピリチュアルやキリスト教で言うところの三位一体という状態以降のことですけど、そのような覚醒以前の場合、スピリチュアルで「簡単なことです」とか言われても、よくわからないわけです。
トラウマを解消したり、ワンネスだとか、雑念を受け流す、だとか、よくそれは「手法」のように言われたりしていますけど、手法として簡単にできるのであればそれは既に覚醒しているわけで、覚醒していないからこそ苦労してそれらを克服しようとしているわけです。
はたまた、「理解です」みたいなことを言われて「しっかり理解すること」で同じく覚醒をしようとしている流派(そのような流派は覚醒「する」とは言わずに、単に理解とだけ言いますけど)もありますけどこれまた、覚醒した後であれば確かにそれは理解というくらいの簡単なお話ではありますけど、それ以前であれば、いくら正確に理屈を勉強して理解したとしても、同じような状態にはならないわけです。
覚醒してしまえば「手法」とかあまり関係はなくて、「理解」だったり「簡単なこと」となるわけですけど、覚醒する前はどうしても、この世を生きている人間が三位一体になるための手法あるいは修行と言われるものが必要になってきます。それが勉強という形だったり修行だったりあるいは日常の仕事を通じて行われる場合もありますけど、どちらにせよ、何がしかの「行動」「手法」が必要になってきます。
一般的に言って、それらの手法は何でも良いと言えばそうで、文字通り、仕事だろうが趣味だろうが何であろうと覚醒に至ることはできます。それはそうなのですけど、やりやすさ、効率の良さ、という点においては違いがあって、多くの人に適しているのが瞑想、そしてヨーガの手法であると思うわけです。
ヨーガは、覚醒に至る階梯をそれなりに詳しく記しており、手法としても細かなものがあります。様々なヨーガが昨今はありますが、瞑想と、呼吸法(プラーナヤーマ)が含まれているヨーガが効果が高くて、よく言われているような体操あるいはポーズとしてのヨーガも効果がありますけど、それは身体の作りによって不向きがありますので、ある程度の体を動かすヨーガをしつつ瞑想と呼吸法(プラーナヤーマ)をするのが良いのではないかと思います。
その時、あまり、覚醒者の言うことを間に受けずに、自分のいる段階で精一杯するのが良いと思います。その気になるのは簡単ですけど、今いる段階を見極めて、一段づつ登るのが良いかと思います。