禅は日常生活の全てが修行で、無心において「ただ○○」すると言います。その寂静の無心の世界は竹筒に水が溜まってカコンと音が鳴るような、道元禅師がおっしゃった世界観に表れているように思われます。
基本は無心、なれど、それは本当に何もないわけではなく、体を動かしている意思というものが直接体を動かしている状態。
とは言っても、文字通り本当に完全に無心というわけではなく、ほんの少しの雑念もふと浮いてくるのであるが、それはほぼ瞬時に解消されてその雑念が消えていってしまう、そのような状態であっても無心と言ってもよろしいのではないかと思われます。
雑念は、私の場合、最近凄い力でプルシャ(神霊)の流入があって以降、急激に最後の最後に残っていたわずかなトラウマ(の残骸)と多少の雑念との両方が解消されていきました。
そして、約2週間経って、割と安定してきて、今、無心の状態がさほど苦もなく継続できるようになったように思います。プルシャが流入してくるまでは、無心になることはできたもののその状態から落ちることも多く、プルシャが流入しても安定するまではここまで無心と言うほどにはならなかったのですけど、ここにきて、急に安定してきて、日常生活で「ただ、○○を行う」ですとか、瞑想にて「ただ、無心のままくつろぐ」ことができるようになりました。
瞑想で、この種のお話は誤解があって、瞑想にてトランス状態、あるいは、要は「意識を失う」ような状態と、今回のこの状態とは決定的に違いがあって、瞑想などでトランスになると言うのは意識を失うことで、瞑想していると無意識の方が優ってしまってあっという間に何時間か経つ、なんてことも時々ある(あった)わけですけれども、そのように、意識を失う(=トランス)と、今回のいうところの無心とは全く異なるのです。
無心を言い換えるなら、「雑念がない」あるいは「ほんの微かの雑念しかない」というのは、雑念が湖の底で少し出てきても、その雑念が水面まで上がってこない、あるいは、ほとんど影響を与えないというような状態です。湖の水面下で少しブワッと小さく動く魚のように、あるいは、湖の底から出ている湧水から空気が時々出てきても湖の水面は変わらず静かにあるように、水面下で少しの動きがあったとしても湖の全体に吸収されて、すぐにその雑念は消えてしまうのです。
この状態になると、体の緩みとエネルギーの詰まりの解消が加速されるように思います。頭の中の強張りやエネルギーの詰まりは思考や雑念が原因だったりしますから、無心で瞑想をすることで頭の中が加速度的に緩んでいき、エネルギーの通りも良くなります。それにより、リラックスも加速します。
無心という言葉がわかりにくければ、「観察状態」と言い換えても構いません。全く逆のように聞こえるかもしれませんけど、無心というのは何もなくなってしまう状態ではなく、思考するマインドが休息している状態で、その時は、「意識」は動いているのです。マインドがほとんど動いていない一方で、「意識」は動いています。ですからこの表現は矛盾しないばかりか、状態のきちんとした説明にもなっているわけです。
瞑想は集中なのか観察なのか、みたいな論争が時々瞑想の業界で行われていますけど、言い方や表現方法だけの問題で、瞑想は両方なわけです。マインドからしたら基本的には集中ですけど観察と言えなくもないわけです。一方、意識からしたら集中と言えなくもないですけど基本的には観察でもあります。マインドが集中して意識が観察と言えなくもないですけど、実のところ、どちらにも集中も観察もあるわけです。
ここでいう無心の場合、マインドは落ち着いていて動きを緩やかにしています。ですから、マインドが集中はしているものの力は入っていません。マインドが緩やかに観察をしている状態です。一方、意識は観察をしていますけど、意識のフォーカスという意味において一応は集中もしています。マインドも意識も、どちらも集中と観察の両方をしているわけで、片方だけ、というわけではありません。
この時、トランス状態のように意識はなくなっておらず、意識は動いています。はっきりと状況を知覚しています。これは観察と言っても良いですし、意識は動いているので集中と言うこともできると思います。言い方だけの問題なわけです。体を動かして無心で「ただ○○する」と言う時は、観察でもあるのですけど、表現的には集中と言った方がしっくりくる状態だったりします。無心でも意識は動くわけです。意識が動けば体も動く。それが無心です。
この、無心でいられる時間が、プルシャの流入以降、急激に伸びたわけです。プルシャの流入それ自体が私自身の変容であったわけですけど、それにより意識状態が一つ上のギアに入った状態になり、無心の状態に入りやすくなり、無心の状態を維持しやすくなり、一つ上の階層、雲の上に登ったような気が致します。
プルシャの流入がある少し前は、雲を抜けて空高く飛び立つ直前のような気がしておりました。プルシャの流入前は雲の中にいたわけです。それが、プルシャの流入があって、ようやく、低空飛行ではあるものの、雲の上に、ほんの少しだけ出たように思うのです。まだ速度が上がりきっておりませんが、それでも、一応、雲の上に出たということで、おこがましくきこえてしまうかもしれませんが、「一番下の段階の、一番低い段階の悟り」に、一応は達したということかなと思っております。
ここに来て思うことは、みなさま、多くの方々がかなり高いレベルの悟りを達成されているということです。私は分をわきまえる必要があると思います。私などが一番低い段階の悟りに達したところでそれが一体何だという感じではありますが、それでも、一応の、ハードルを超えたということかなと思っております。今後、更に徹底するためには、無心によりマインドのくびきから解放されて無心の世界、無意識の世界を探求してゆく必要があるようにも思います。