プルシャ以降の方向性

2023-03-18 記
トピックスピリチュアル

プルシャ(神霊)との一致の後の方向性についてメモしておきたいと思います。

・プルシャに自覚的になる
・「我(私)」という感覚の否定の徹底
・プルシャそのものになる

この時、少しずつ「自己」が否定され、自己がプルシャそのものへと変容していく。変容というと語弊があるが、プルシャが優勢になり、プルシャそのものになる。もともと幻想だったエゴとしての自己が否定され、そもそもこの段階ではかなりのところまで否定されているわけですけど、それが更に徹底されることと思います。そうしてほぼ完全に自己が否定された時、残るのはプルシャとしての自己であるわけです。

プルシャというと一応は一番低い段階の悟りではあるわけですけど、まだそこには「個」というものは存在しています。プルシャは物質ではなくて純粋精神ですので、その前の段階のカーラナのように物質ではなくなっています。肉体の物体、そして、思考するマインドや感情としてのアストラル体も物質で、その次の、カーラナ(コーザル、原因体、カルマを司る)も一応は物質で、その次のプルシャになると物質ではなくて純粋精神になります。純粋精神ではありますが、まだ「個」はあるわけです。一応、表現としてプルシャは「人」だとか「純粋精神」はたまた「神霊」とも訳されることがありますが、一応は神霊ではありますが、全てを一体としたワンネスではなくて、まだ「個」が存在しているわけです。「個」のある、場所的な、地域的な、分野の限られた神霊(プルシャ)であるわけです。

まず、段階として、このプルシャ(神霊)としての自覚および自覚的になることが次の課題のように思います。

この辺りのことに関して記載のある書物は少なくて、貴重な文献の中に本山博先生の著作集があるわけですが、最終的には「全体(ワンネス)」としての創造神という段階に進む前の、過渡的な段階がプルシャ(神霊)」であると言います。プルシャと言っても個性があり、良いプルシャ、そうでもないプルシャとあって、それぞれのようです。神様にも分類があるように、この段階ではまだ「個」に分かれているわけです。

最近、ことあるごとに、何故か、古事記に出てくるようなアメノなんとか、という神様の名前が瞑想中に出てくるので何だろう、と思っていましたが、ふと、本山博先生の著作にこのあたりのことも記載がありました。

天津神と国津神の分類は、一般的には天津神が天に住む神で国津神が地上の神、と言われているかと思いますが本山博先生の解説は微妙に違っていて、元々の土地や物の魂が地の神であって、その土地の魂の中に天の神が入り込んで行って働かせて創造し、地の神(国としての創造以前の物の中にある精神)が国の神として働く、とのことです。(本山博著作集7 P55)

これは、ヨーガで言うプルシャ(純粋精神)とプラクリティ(純粋物質)の関係に似ているのですが、本山博先生の仰る神霊(プルシャ)の働きとか一致とか言うときは天の神としての国の魂のようなものを意味していて、もともとある物質の中にある精神(地の神)をプルシャ(純粋精神)が働かせる、そうして創造に至る、ということだと思います。

何故、私がここ最近の瞑想でアメノなんとか(天なんとか)という神様の名前が出てくるのか不思議だったのですけど、天津神がプルシャだとしたら、繋がりがあるのも当然と言えるかもしれません。