表現としては別々に聞こえるかもしれませんけど、全て同じことです。表現が違うだけで、同じことを様々な面から色々な人が言い表しているわけです。
無心とは論理思考の合理的マインドがほぼほぼ止まっている状態ですけど意識は働いていますから観察(ヴィパッサナー)であり、それは意識によって「ただ○○する」状態でもあり、心の中の雑念(=マインドのお喋り)がほぼほぼ止まっている状態ですから寂静の世界であり、その状態は満ち足りていて至福でもあります。
このうち、一つの状態を取り出してみてあーでもない、こーでもない、と、どちらが正しいだとか、こちらが真実だとか、学者は頭で色々と考えたりしていますけど、このようなことは体験してみれば一発で解決なわけで、あれこれ考えるより、ただ座って体験すればいい、という禅のお話にも通じてくるわけです。
人によっては無心と言ったり、はたまた同じことを心と言ったりします。心が日本語的な心なのか西洋的な英語のマインドの意味なのかでもかなりコンテキストが変わってきますけど、無心と表現しても良いですし、単に、心、と言ってもコンテキスト次第ではそう間違いでもないわけです。
心というと2つの側面があって、思考する合理的マインドという側面と、意図したり認識したりする意識という側面がありますけど、無心にせよ心にせよ、ここで言われていることはマインドの静寂のことであって、その時、意識は動き続けるわけです。その状態を無心と呼ぼうが心と呼ぼうが、どちらでも表現としては可能なわけです。
無心であっても意識は存在しますので語弊があるとも言えます。一方、心というとマインドのことかと勘違いしてしまうこともあるため語弊があると言えます。ですので、どちらの表現をしたとしても誤解が生じる余地があるわけですけど、それでも、人々は、どうにかして悟りの状態を表現しようとしてきたわけです。
実のところ、単に無心になったり観察、あるいは寂静の世界、はたまた至福の状態になったからと言ってそれがそのまま悟りの最上というわけではないのですけど、一応、世間的には、悟りの一番最初の段階とみなしてもよろしいのではないかと思います。
最近思うのは、仏教など禅はたまたヨーガで言われている悟りの状態というのは基本的には個人の悟りであって、仏陀やキリストの悟りのワンネスとは隔たりがあるということです。
静寂の世界、至福になったとして、それはそれで素晴らしいことだと思います。一応、世間的にはそれも悟りと言っていいかと思います。
その後、いわゆるハイヤーセルフを迎え入れて一体になること、言い換えればプルシャと一体になること。それが、ひとまずの、最低限の、最初の段階の悟りに本当に達したということなのかなと思います。単に静寂とか至福になっただけでは世間的に一応悟りのような状態になっただけであり、それはそれで至福なのはそうなのでしょうけど、まだ神の領域に足を踏み入れてはいないと言えます。
どうも、ハイヤーセルフあるいはプルシャと呼ばれているものとの合一、あるいは、ワンネスとしての完全なる合一に至るにはいくつも細かな段階があって、少なくとも最初の段階のハイヤーセルフの合一をした段階で、本当の意味での、最初の悟りの段階、一番低い悟りの段階と言うに相応しいように思います。この、ハイヤーセルフ(プルシャ、光明、神霊)との合一なしの至福や静寂というのはあくまでも世俗における悟りであり、それはそれである程度の境地であるにしても、神の領域に踏み込んではいないわけです。
多少なりともハイヤーセルフと合一するためにはある程度まで「自己」というものがなくなっていないとハイヤーセルフは近づけないわけですが、段階的に、ハイヤーセルフと多少なりとも合一したのならば、そこからますます「自己」というものを消してゆく必要があるわけです。最終的には「自己」というものが消え去り、プルシャ(神霊)としての意識が表に出て、プルシャがプルシャとして思考するようになると言われています(私はまだですが)。
この合一には段階があると言われています。
1.プルシャ(神霊)が顕在意識に出てきていない状態。まだ自己というものが残っているが故に、それより大きな意識であるプルシャ(神霊)の意識が表に出てこられない状態
2.多少ながら意識が出てくることができる状態。中間的な状態
3.自己というものがほぼ完全に消え去り、プルシャ(神霊)の意識が表(顕在意識)に出られるようになった状態
思えば、1ヶ月くらい前にプルシャ(神霊)が頭の上に張り付いてきて物凄い力で入り込んできて、胸の奥の小部屋にツルんと降りていった時、その時は、かなりのところまで「自己」という意識がなくなってきてはいたものの、それでも、まだ、「自己」というものがそれなりにあった状態だったように思います。昔と比べると全然小さな「自己」ではありますが、この段階になりますと、その、ほんの少し残っている「自己」ですらも、存在を問われるようです。
ここにきて、インドのヴェーダンタ学派がやっている「これは自己(アートマン)ではない」「これも自己(アートマン)ではない」という、否定を繰り返すやり方、「ネティ(否定)」「ネティ(否定)」・・・・ という手法が重みを持ってくるように思います。ヴェーダンタ学派の人はこの段階の以前から、基本的な思考方法としてこの「否定する」ということをしますけど、ここに来るまで、どうしてそれほど「これは自己(アートマン)ではない」を繰り返すのか、あまり腑に落ちないでいました。実際のところ、ヴェーダンタ学派の人は形だけ真似をしていることが多いようにも思いますが、おそらく、本来は、この、プルシャ(神霊)の目覚めの段階およびその次の段階のワンネスに向けて重要な意味を持ってくるのではないかと思うのです。
この段階に来るまでは、このような「否定する」というやり方よりもヨーガのような直接的な手法の方が効果があったように思います。ここに来るまで、理屈として「否定する」やり方は、それはそれで理屈としては理解できますけど、どうしてそこまで執拗に「否定する」のか、どうにも理解できないでいたわけです。
しかし、こと、プルシャ(神霊)に関しては、それが圧倒的な力と意志の力であるために、「自己」というものは否応なく消えるしかありません。
一応補足しておきますが、プルシャ(神霊)の全てが良い存在ではなくて、神様にも色々いるように、相性だったり、性質の違いがあります。そして、受け入れることができるのは、親和性のある、縁のあるプルシャ(神霊)だと言います。私の場合、全く違和感なく受け入れていますので縁があるのかなと思いますが、今のところ、どのような縁なのか、かすかに「そんな気がする」ということはあるにはあるのですけど、まだ確かめられていはいない状態です。
ですから、そのように、相性の良い、自分に縁のあるプルシャ(神霊)を受け入れて、そのことで「自己」というものが消えるならば、それは良いことだと思うのです。しかし、相性が悪かったり、良くない神霊を受け入れたのならば不調和が起こることもあるらしいですけど、個人的にはそのような経験はないので良くわかりませんが。
プルシャ(神霊)くらいになると、人間の側が抵抗しても無駄で、物凄い力で入ってきますから、常日頃、ガイドに守ってもらえるようお祈りをしたり、宣言にて「私は自分のハイヤーセルフは受け入れます」というアファメーションを時々行うことも大切のように思います。
この辺り、やはり、「何を目的としてスピリチュアルの成長を目指すのか」が大切で、基本は、自分のハイヤーセルフと繋がることだと思うのです。
一方、例えば、世間で良くあるように、現世利益だとか霊的な能力を目的としてしまうと変な存在と繋がってしまって人生が滅茶苦茶になったりすることもあるようです。この辺り、人は「願った通りの現実になる」ことが基本でありますので、現世利益や霊的能力を願うのは危険で、変な意図を持ったアストラルの存在と繋がってしまうとそこらにある霊能力者や教祖にはなれるかもしれませんが悟るのは難しい(本人は悟った気になることもあるでしょうが)状態になってしまったりします。
自己をなくす、という時も、それがどのような意味なのかしっかりと捉えることが重要です。この「自己をなくす」と文字通り受け止めてしまうと、「自己が無になる」と思ってしまうかもしれませんが、一般的にスピリチュアルでいう「自己をなくす」というのはそういうことではなく、エゴ(自我)をなくす、という意味であって、そもそも自我というのはヨーガいうアハンカーラですからそれは錯覚でしかない、という意味です。とは言いましても、自我というものは、なくなったように見えても、かなり最後まで残っているようにも思います。ですから、「自我がある(残っている)」としてもそこまで気にする必要はなくて、他者を傷つけないように少し気をつけて生活をする必要があるように思います。
また、もう一つの意味があって、「より大きな存在、場所的存在、力を持った意識体に対して自己(自我、エゴ)が相対的に消えてしまう(ように見える)」ということでもあり、その時、本当の自己が消滅するわけではなく、よくある例えとして「川が海に流れ込む」ということが言われますけど、その時、川の水は消えてしまうわけではないわけですし、同様の例「水滴が海に落ちる」にしても水滴は消えてしまうわけではなくて大海に溶け込んでしまって区別できなくなるだけのお話なわけです。その時、自我が「自分」だと思っていたものは錯覚だとわかるわけです。より大きな自己というのがハイヤーセルフだったりプルシャだったりするわけですが(言い方が同じだったりしますが階層の違いがあったり、同じものを指す場合もある)、その、より大きな自己であるハイヤーセルフあるいはプルシャに現在の小さな自己が統合されるわけです。その時、今まであった意識としての自己だけでなく、幻想であるところの自己も含めて同時に両方ともより大きな自己に統合されていきます。急速に自我(エゴ)がなくなりますし、と同時に、より大きな自己という意識に統合されるわけです。
前者の自我のお話が基本になるわけですが、プルシャの段階になると後者が課題になってくるわけです。前者は錯覚ですから文字通り消えてなくなるお話ですけど、後者は、より大きなものに包まれて同化するお話なのです。これが、ごっちゃになって語られているので良くわからないことになっています。
ヴェーダンタでは、自我(アハンカーラ)に基づいた錯覚としての自分はジーヴァと言われています。いわゆる普通の世俗的な自分です。一方、本当の自分はアートマン(真我)と呼ばれています。ジーヴァは錯覚ですがアートマンは普遍で、自己というものが本来の自分であるアートマンであると自覚する、統合されるわけです。
まずエゴ(自我)を減らすわけですが、その時、自己の意識はなくなるどころか強化されていきます。エゴ(自我)による覆いが取れるにつれて自己の意識の方は強化されていくわけです。自我は人が個体である以上は最後の最後まで少しは残り続けるように思いますが、自己の意識の方は強化され、まず今ある自分の意識が(エゴの覆いが取れたことにより)あらわになり、そして、ハイヤーセルフとの一時的な結合、という段階から始まって、やがて、重なって合一し、高次の自分に統合されるわけです。
この辺りのことがよくわかっていない人に対して「自己を無くさないといけない」とか言いくるめて「自己」を押さえつけて奴隷にしようとするのがそこらのわかってない教祖やエセ霊能力者であったりするわけですけど、スピリチュアルな成長をすればするほど、より「大きな自己」に統合されるわけで、そうなると、本来の意味としての「意識」はより強固になる一方で、エゴ(自我)という意味における間違った認識における自分という錯覚の方はどんどんと消えてゆくわけです。そうして、意思が強化され、至福になり、満ちている状態になります。静寂でもありますが意識はあります。観察しているヴィパッサナーでもあります。
性質としては神も人間も同じものを(一応は)持っていると言われていて、大きなものの性質は小さなものにも(一応)あるわけですが、そのような意味において、神の静寂、神の思考、神の至福、神の意志の一部ではあっても人間は最初から持っていて、ハイヤーセルフ(高次の自己)あるいはプルシャ(神霊)と繋がったり合一することで神へと近づくことができるわけです。
まず最初、今ある自分で静寂やら観察(ヴィパッサナー)やらを進めて、ある程度の境地に達した後に神霊(プルシャ)の世界があるわけです。自我を減らし、ハイヤーセルフ(神霊、プルシャ)と繋がったり合一することで本来の自分に戻ることができるわけです。そして、それを悟りと呼ぶのならば一応の(一番程度の低い)悟りであるわけです。
そのようにして、まずハイヤーセルフあるいはプルシャ(神霊)と一時的に繋がる、あるいは、一時的な結合・合一をするわけですけど、実のところ離れている場合が割と基本といいますか普通の人の場合で、その後、一時的に線のように繋がっている時もあれば、合一のように重なっている場合もあるわけです。
まず合一を目指し、一時的な合一から継続的な合一になったとします。その時、最初の段階ではまだ合一したばかりであり、存在として完全に合一したわけではないわけです。
この辺りのことを厳密に表現しようとすると更なる検証が必要のようにも思いますが、基本はこうです。
まず、元々あった自分というものがある。偽りの錯覚の自分という意味である(ヴェーダンタの言う)ジーヴァのことではなく、ジーヴァはこの時点になるとかなりのところまで小さくなってはいるのですけど、そのことではなく、本来の自分、魂としての自分が、プルシャよりも小さいものの、同じ質のものを誰しもが胸の内に持っているわけです。
その、元々あった、プルシャ(神霊)よりは小さいけれども本当の自分であるもの、それはヴェーダンタではアートマン(真我)と言ったりしますが、それは普遍で常に存在している永遠のものです。その、小さいながらも全体としてのブラフマンとでも言えるものと同じ質のものを誰しもが持っていて、それが本来の自分であるわけです。
ここで、ハイヤーセルフとかプルシャ(神霊)とか言っているのは、質は確かに元々の自分と同じですが、より大きなものことです。大きいだけでなく、より「満ちている」ものです。エネルギーの質量が高く、エネルギーの圧もあり、創造でもあり維持でもあり破壊でもある、根源のエネルギーであり、と同時に、意識でもあります。
元々あった自分という殻が破れて大きなものと繋がる、あるいは、包まれる、融合する、合一するとき、より大きなものの中に自分が溶け込んでゆきます。
その時、観念として昔の小さな自分というものが残っていると大きな自分という意識が働くことが難しい状態になり、合一したとしても、特に最初は、意識としては昔のままになって、ただ「満ちている」だけの状態になるわけです。愛や満たされる感覚は十分であったとしても、ハイヤーセルフの意識、プルシャ(神霊)の意識としてまだ目覚めていないわけです。
これが、プルシャとの合一の後の、第一段階のように思います。
その後の段階ことはあまり文献に記載されていることがないのですけど、希少な文献として本山博先生の著作に基けば、この第一段階の後、元々あった「自分」というものがなくなる(=全体に溶け込む)につれて、最初は一時的に(これが2段階目)、そしてやがては永続的にプルシャとしての意識で動くようになる(これが3段階目)、とのことです。3段階目においては小さな自分という意識は(ほぼほぼ)なくなって、プルシャとしての意識で動くようになる、とのことです。
その時、プルシャ(神霊)は場所的な存在、あるいは、トピック的な存在でありますから、その、影響力を持つ範囲においてプルシャ(神霊)の意識が働くわけです。本山博先生によれば、この時に影響力を持つ範囲において認識できることが(プルシャとしての)霊視・霊聴である、とのことです。そうでなくても霊視や霊聴は狐やたぬき、はたまた浮遊霊や守護霊の悪戯や好意あるいは興味、はたまた悪意で持って人間にもたらされることがありますが、本来の、正当なる霊視・霊聴とはこのようなものである、ということだと思います。この段階以前では、不意に感じたり見えたりしますが、プルシャの意識が完全に目覚めれば常にプルシャの意識が働くとのことです。ですが、超能力は本筋ではなく、まず場所的な限られた存在として意識が広がり、やがて、ワンネスへと進む、その途中の一つの過程に過ぎない、というのは何度も重ねて付け加えておきたいと思います。
これは、全体としての創造神、あるいはヴェーダンタで言うところの全体としてのブラフマンと、個としてのアートマンのお話でもあります。
用語としてヨーガではプルシャ(純粋精神)という言葉を使い、本山博先生はプルシャ=神霊としていて、一方、ヴェーダンタではアートマン(真我)とブラフマン(全体)という言葉を使っています。
このうち、定義が違いますので流派の人に言わせるとその表現は違うということにはなるのですけど、おおまかに捉えると、同じ「個」の段階という点においてはプルシャ=アートマンと考えても良いように思います。ただし、ヴェーダンタ学派の言うところではアートマンにそのような区別はなくてアートマンはブラフマンで全体であるから、そのようにアートマンが個であると考えること自体が間違いだったりするわけですけど、ここでは、そのようなお話は横に置いておきます。
そのように、一応は「個」である段階があるわけです。それがプルシャあるいはアートマン(真我)だとして、ヨーガではプルシャ(純粋精神、神霊)までで終わりになっていますけど、その先に、「全体」のお話があるわけです。ヨーガは修行としてはよくできた体系ではありますが、個としてのプルシャ(純粋精神、神霊)で終わっている。一方、ヴェーダンタは個と全体と言うお話は出てくるものの、それを単純に同一としてしまっているので成長という観点が抜けていて、それ故に「理解」というお話に終始してしまっています。
ただ、いろいろなところに本質が見え隠れしているのが面白いところで、ヴェーダンタ学派は勉強をする過程で「自我(ジーヴァ)は(本当の)私(アートマン)ではない」ということを繰り返し行います。これは本来、勉強のお話というよりは、個としてのプルシャあるいはアートマンが全体としてのブラフマンに進化する時のお話のように思うのです(ヴェーダンタ学派はそのことだけではなく学問の基本姿勢として性質に備わっているようですが)。
まず、そのように全体としてのアートマンに目覚める前に、まずプルシャあるいはアートマン(真我)に目覚める、あるいは、合一するという段階があるわけです。それはあくまでも個でのお話であって、その中でも、3段階くらいに分かれていて、まずは単に合一しただけ(1段階目)、そして、一時的にプルシャの意識が優勢になったり思い出す感覚になる(2段階目)、そして、プルシャの意識が安定して動き出す(3段階目)とあるわけです。
その、プルシャの意識が安定した後に、そこで留まってしまったらあくまでも個としてのプルシャ(神霊)のままであり、そこがゴールではないわけです。プルシャ(神霊)の意識は確かに悟りの一番下の段階でありますから一応は悟りではあるわけですが、まだ「全体」としてのワンネスに到達していません。
ヴェーダンタ的にいうのであれば、アートマン(真我)がやがてブラフマンとしての全体であることに気づく、認識する、理解する、ということになるのかなと思います。そのような段階があるわけですが、ヴェーダンタの言うようにそれは元々同じものであるのですから「なる」とかいう言い方はおかしくて「理解するだけ」と言う理屈はそれはそうだとは思うのですが、それはブラフマンからの視点で語っているわけであって、そうではない視点、相対的な視点というものもあるわけです。
全体のワンネスに到達する以前であれば、それは相対的なものになるわけで、絶対からの視点からしたら最初からワンネスなのはそれはそうなのですけど、相対的なものとしての視点として、まずはプルシャ(神霊)あるいはアートマン(真我)としての個の段階にまず達し、そして、やがては全体としてのブラフマンあるいは創造神と言ってもいいワンネスの段階があるのだと思います。