割と力づくの無心の瞑想で頭頂のサハスララを開く

2023-03-20 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

頭頂のサハスララが開いていないとエネルギーが行き届いていない状態で少し硬い感じになってしまいます。瞑想を普通にするだけで割とすぐに回復することが最近は多いのですけど、なかなか開かないような硬い日であったとしても割と力づくで無心の瞑想をすることで段階的に頭頂のサハスララまで開くことができるように思います。

力づく、というと語弊があるかもしれませんが、肉体の筋肉の力はほとんど使いません。意識を合わせるだけです。意識の力で頭頂の硬いところに集中してエネルギーを注ぎ込むと、しばらくその状態が続いた後、何かがが崩れるようにガクンと緩んでエネルギーが通り始めます。それを段階的に繰り返すことによりどんどんとエネルギーの通りが良くなって緩んでゆきます。5段階とか10段階とかに分かれて緩んでいく場合もあります。

その時、何か雑念があるとなかなか緩みにくくて、おそらくは雑念や想念にエネルギーを使われるからで、緩むエネルギーだけに集中するには無心になると割とすぐに緩むように思います。無心でエネルギーを硬い部分に向けるわけです。部分というよりは、硬さというのはエネルギーが通っていない外側、いわば風船のように緩んだ場所があったとして、その外側が硬い感じになっておりますので、緩んでいる場所と硬い場所の境目くらいに意識を(無心で)合わせるわけです。

無心なのに意識を合わせるとは一体どう言うことなのかと思われるかもしれませんが、思考する論理的なマインドを停止させてその奥底にある意思・意識の方だけその場所に向ける、集中する、と言うことです。そのように、無心で意識を一箇所に向けると相当のエネルギーがそこに集まり、そのエネルギーは、割と力づくのようにして強制的にその部分を緩ませていきます。

表現として「力づく」は不適切かもしれませんが、エネルギー的にかなり集まるので、力は入っていないものの、効果としては割と「力づく」で開いたかのような「効果」は生まれるわけです。これは能動的に力を入れているわけではなく、意識を合わせると言うことは一応能動的ですけど力を入れているわけではなく、意識を当てるだけで、思考するマインドは停止して無心にした状態で意識だけその境目の硬いところに合わせるのです。

そうして、マインドは無心にして意識だけを与え、筋肉の力は入れずに、ただ意識だけを与え続けると相当なエネルギーがその箇所に注ぎ込まれ、やがて、「結果」として割と自動的に「力づく」で緩むような効果が生まれるわけです。

力を入れていないのに何故に「力づく」なのか、不思議に思われるかもしれませんけど、実のところは、こういうことなわけです。意識を当てることで、まるで「力づく」かのような「効果」が生じるということなわけです。

こうして、緩んだ箇所にエネルギーがよく通るようになり、それはヨーガ的には「ナディ」と呼ばれるエネルギーのルートなわけですけど、それがアジナとしての頭の中ほどから前頭葉、そして頭頂にかけてそれぞれの場所を段階的に開いて(緩ませて)いきます。そうするごとに意識としてはリラックスが深まり、エネルギーが高まり、認識としての意識も明晰になります。

これが、割と最近の瞑想の基本になっている感じです。

効果
・リラックス
・エネルギーの高まり、満ちている感覚(感情の至福を超えて更に満ちた感覚)
・意識の明晰さ