私は割と定期的に不特定の人にカウンセリングを受けて自分の状態について客観的な意見を頂き、審神者をしているのですけど、ここ最近のプルシャ(神霊)の受け入れ以降、なかなかそれが難しくなりました。と言いますのも、このあたりのことを話して通じる人が割と少なくなってきたのです。
今までは割と一般的な波動とかチャクラとか気持ちの整理などで課題を見つけて、それはそれで役に立っていたのですけど、ここ最近は、話しても通じなかったり、割と真顔で「それは気のせいだと思います」と言われたりします。例えば「ただの想像です。頭の中が考えでいっぱいになっていませんか。お風呂に塩を入れて気分をリラックスさせると良いと思います。」とか言われたりして、それはそれで一応は一般的には正しいのですけど、何か、ちょっとピントがずれていて、もうそろそろ、意見を聞ける人が限られてきました。
私は割とイベントで受けることが多いのですけど、何度もイベントに行っているとある程度、出店している方の顔がわかってきて、精度が高いカウンセラーもなんとなくわかってきて、今までは割と不特定、という感じでしたけど、リピートと不特定が半々くらいになってきました。
カウンセリングで判明したこと
・最近サハスララから入ってきたのは高次の存在の分霊。大元の存在は、羽衣みたいな服を着ている女性。顔が小さい。位が高そうな高貴な服。黒髪なので日本かもしれない。日本かあるいはアジア圏かもしれないが、宇宙系かもしれない。(また後ほど気づいたのですが、これはどうやら演出っぽいです)
・名前はわからない。(まだ知る必要はない、と解釈)
・高次の存在(の分霊、というか元々自分に属するオーラ)なので心配しなくて良い。
・背骨沿いのエネルギーの道(ヨーガでいうスシュムナ)が頭のところできちんと開いていないのは、左右バランスが整っていないため。歪んでいるとエネルギーの通りが悪くなる。(これはヨーガで言われていることと同じ)
今回思ったのですが、スピリチュアルの世界はアストラル界を扱う人が多くて、アストラル界で特出した能力を持っていたとしても、それはあくまでもアストラル界の能力なわけです。霊視ひとつを取ってみても、基本的にはそれはアストラル界での霊視なわけで、であれば、それはなかなか時空を越えることができず、あくまでも「今」(と、その前後、関連があるもののみ)という限られた範囲における霊視なわけです。それはそれで病気を診断したり、定期検診(健康診断)では発見できなような病気の予兆を発見したりするには役立ちますので、それは、その能力者がどの領域を見ているのかが重要なわけです。
もう少し上のコーザル界(カーラナ、原因)の高級霊あるいはそのまた上のプルシャ(神霊)を見ることができる人はこれまた限られてきて、今は、スピリチュアルというとこれらがごっちゃになっているのが現状だと思います。アストラル界ですと次元を越えることがなかなか難しく、次元を越えるためには後ろについている守護者の助けが基本的に必要になります。コーザル界ですとそれなりに次元を越えられるようになり、プルシャになりますとその影響範囲内において次元をこえて時空が一体となった世界を見ることができるわけです。
霊視と言ったときにプルシャな次元で行っている人は少なくて、となれば、ひとまずカーラナ(コーザル)以上が上級のスピリチュアル・カウンセラーとみなせると思います。アストラル界を扱っている人は普通のスピリチュアル・カウンセラーです。そして、特に能力がなくても後ろの守護霊の助けを借りて何某かの役割を担っている人もいますし、能力がなくても勉強で賄っている方もいらっしゃいます。
スピリチュアル・カウンセラーのうちアストラルまでが85%、カーラナまでが10%、プルシャが5%くらいですかね。これは現時点でも私の印象ですので、実際は違うかもしれません。
カウンセリングを受ける時、どの方法でやっているのかは重要で、受ける側からしたら結果が出ればそれでいいわけですけど、時と場合によって相談する人が変わってきます。
基本的にはカーラナ(コーザル)以上を見ることができる上級のカウンセラーがいいわけですけど、アストラル界であってもそれなりに身体的な不具合には十分対処できたりしますし時に身体的なものに精通している場合もありますし、本人に能力がなくても後ろについている方の能力が高い場合もあって、はたまた、ものすごく勉強されている方はそれは時に助けになる場合もあります。
審神者という観点からするとそれぞれの視点がそれぞれに参考になって、その人の視点から客観的に見てもらうことで自身の状態をより良く把握することができます。
スピリチュアルのイベントでカウンセリングを受けた後に通路を歩いていたら急に霊障っぽくなって、そういうことは最近は本当に少なくなっておりましたのでどうしたものかと思ったのですが、実は、エネルギーが頭頂のサハスララから入ってこようとしたものの、後頭部が詰まっていてうまく取り入れられなかったようでした。
その時、通路で、急に、最近珍しくクラクラして意識が朦朧としてきて、視界がぼやけてきて頭の上に何か雲のようなものがかかった状態になり、これは珍しく霊障かと思い、次の日以降もしばらく続いたのですけど、次の日にしっかりと瞑想をしてみてわかったことは、これは霊障といえばそうなのでしょうけど、霊障というよりも、エネルギーあるいは意識としてのオーラが入ってこようとしたものの特に後頭部のあたりが詰まっているので、エネルギーがうまく入ってこられなかったがために頭の上の方に溜まってしまい、雲のようになって意識が朦朧としていたようです。それが、イベント会場で急に起きたわけです。
その時、症状としては、何か、とても久々に霊障になってしまった感じでした。ふと思い返せば私は今までスピリチュアルなイベントは割と危険が多いと思っていて、変な存在が入ってこようとしているのかなと勘繰ったりもしたのですけど、私は最近は外を出歩いていてもそうそう霊障にならなくなったので、それもあってか、ちょっと油断したのかな・・・ と思っておりました。でも、それは、解釈違いだったのかもしれなくて、自分は成長したと思っていたけれどもまだまだかもしれないな、とか思いつつ、そこらの外を出歩くよりもスピリチュアルなイベントの方が危険だなぁ・・・ と、久々にそのようなことを思ったりして、それでもカウンセリングは有用ですので霊障に気を付けつつも定期的に来るかなあ、とか思っていました。霊障に強くなったと思っていたものの、未だに霊障になるなんて、私も自分で思っているよりまだまだだな・・・ とか思ってたのでした。このような理解は、根本的に理解が違っていたのかもしれません。元々の理解も間違っていましたし、考え違いだな、と、考えを改めた方が良いかな、と思った、その両方とも、根本的に理解が違っていたかもしれません。
霊障というと他の変な意識体に取り憑かれたりして、私は右肩が弱くてハートのアナハタにまで根っこのようなものを伸ばされてオーラを吸い取られていたりすることが度々あったのですけど、またそんなことがあるのかなぁ、と思って色々と瞑想で探ってみたものの、何もないわけです。これはどうしたものかなぁ・・・ と思いつつ瞑想をしたら同日中はそれなりに気分が回復したのですけど、それでも、まだ意識が苦しいわけです。表情が風邪っぽくて、いつになく苦しいわけです。これほど苦しいのも珍しいな、と。ただ単に風邪かなと思いつつも、肉体的なものというより、エネルギーの不調なわけです。
ふと瞑想中に探ってみると、どうやら、変になっているのは頭の頭頂付近で、そこに、何かがくっついているような感じなのです。漢字としては「小麦」あるいは「玄米」みたいな、生の栄養素みたいな感じで、そこから特に意識は感じないのですけど、まさに「栄養素の塊」みたいに思えるのです。そして、それが、何やら意識が苦しくなっている原因のようなのです。
インスピレーションとして「これは受け入れるべきオーラ」というメッセージを何となく受けてはいたのですが、これがあった初日(当日)はその意味に薄々勘づいていつつも、まだその意味が十分に腑に落ちてはいませんでした。
これは霊障の原因かと勘繰っていたのですけど、実は、単なる栄養素なのかもしれない? と思って、試しにその頭頂のオーラを食べてみることにしました。
その日も後頭部が詰まり気味でしたので、後頭部を意識して開くようにして、後頭部から喉の方にそのオーラのようなものを食べてみました。その時、後頭部も喉のところもそれほど開いてはいませんでしたので一旦は喉で詰まったのですが、喉も開くようにして、ヨイショヨイショという感じでオーラを下の方に少しずつ飲み込んでみたのです。
すると、どうでしょう。今まで曇っていて少しモヤモヤした意識が急にクリアになり、苦しさがほとんどなくなりました。鏡を見てみると、今まで苦しんでいたので表情がまだ硬い面はあるものの、割と落ち着いてきています。病み上がりのような感じです。まだ病人の顔ですが、山は超えた感じです。それで、胸のアナハタおよびお腹の辺りを見てみると、今まで頭にあったオーラがお腹の中にあって、消化されています。
これ、ひょっとして、先日胸の中に入ってきたプルシャ(神霊)の食事なのですかね・・・?(後では違った解釈をするのですが、この時はそのような仮説を立てました) 実のところ、この辺り、よくわからないのです。 プルシャ(神霊)って食事をするのでしょうかね・・・? なんとなく、何でも食べる感じが致しますが。 消化力がものすごくて、そんじょそこらのオーラなら平気で栄養素にしてしまいそうな雰囲気です。 今食べたこのオーラも、玄米とは言ってもそんなに味もついていなくて単なる栄養素でしかなくて、それでもむしゃむしゃ食べている感じです。 プルシャ(神霊)ってエネルギーを食べるのですかね。 よくわからないですね・・・。 この変なエネルギーにちょっと胃もたれしている気もしますが、十分に消化できるようにも思います。 少し経てばお腹の変な感覚もなくなりました。 とすれば、先日から意識がモヤっとしていて霊障っぽくなっていたのは、プルシャが食事をしようとしたらエネルギーが頭頂で詰まっていたわけで、そうならば、意識がぼやけたことにも納得です。そうと決まったわけではなく仮説ですが。(・・・後日、インスピレーションで解説されたところ、かなり勘違いのようです。何となくは当たってはいる面もなくはないですが。要は、分割してオーラが融合されてきているようなのです)
どちらにせよ、常日頃から瞑想をしっかりとして後頭部やサハスララをしっかりと開けている必要がありそうです。
そのような「食べる」という解釈に加えて、五大元素あるいはファイナルファンタジーのクリスタルのように属性ごとに色々な特性を取り込む、という意味もありそうです。最初に入ってきたのが「水」あるいは「愛」の属性だとすると、今度のは「地面」あるいは「土」の属性かもしれなくて、色々な属性が加わるのかもしれないです。
思えば、この状態でイベント会場でスピリチュアルなカウンセリングを別の人から受けたら私の言っていることがあまり理解されず、単に「気のせいです」「雑念が多いのでは」「ぼーっとしていませんか」「塩でお風呂に入りましょう」みたいな通りいっぺんのことを言われて、流石にこんな状態を見抜いてカウンセリングしてくれる人もそうそういないでしょうから、仕方がないかなぁ・・・ と思いました。このカウンセリング自体も、上の存在の計らいで、そういう回答を意図的に引き出して、カウンセラーに「言わせた」感じも受けました。と言いますのも、通路で目が会った瞬間に向こうが椅子から立ち上がってチラシを見せて案内してきましたので、こういう時はカウンセラーの方にしてもおそらく「この人はカウンセリングしないといけない」というメッセージを受けている場合が多々あるからです。実のところ、意図的にこのカウンセラーに間違いを言わせた、インスピレーションをあえて与えて「こういう、勘違いカウンセリング」を意図的にさせた、という面があるようです(ですから本来のこのカウンセラーの姿ではない、とも言える)。おそらく向こうも、「これ、言わされたけど、何かおかしいな」と思っていたような気が致します。そして、このような的違いカウンセリングを私が将来にしないように気を付ける、という意味もあるようです。将来のひとまずのゴールとして、このような場合でも適切にカウンセリングできるようになってください、という意図があるようです。このカウンセラーは、私への注意と、私のための将来のレッスンとして上の存在がだしに使った、ということでしょうか。このカウンセリング、最初からちょっと変な感じで、(こちらの)上の人に(半ば)操られていて、カウンセラーが(こちらの)上の人が言いたいことを言わされていた感じでもあります。
今から思えば、もしかしたら、過去に霊障だと思っていた症状であっても、ただ単にうまくエネルギーを取り入れられていない、エネルギーをうまく扱えていないだけだったのかもしれない、と思い直しました。そうだとすれば、今までスピリチュアルなイベントで霊障っぽくなった症状も納得で、それは霊障というよりはエネルギーが過大になってキャパシティオーバーになっている、という場合も多々あるのかもしれません。スピリチュアルなイベントが危険というお話も時々耳にしますけど、実はただ単に、このようになっている可能性もそれなりにあるのかなと思います。
おそらくは、エネルギー的に(プルシャは)割と何でも食べて栄養素にすることができるので基本的には霊障の心配はないものの、うまく取り込めないとエネルギーの滞留が起こって霊障っぽくなってしまうのかもしれません。(後の理解に基づくと、食べるという部分は多少は合ってはいる面もあるものの、かなり勘違いのようです。エネルギーの滞留については、それはそうだ、とのこと)
エネルギーを扱う総量が以前よりも増えましたので、それに伴い、体のメンテナンスもしっかりして瞑想もしっかりしなくてはいけないのかな、と思います。
そういう点で、なかなか、新しい発見でした。
その後、これらを書いていたら解説としてインスピレーションを受けたのは
・これ(頭に張り付いた圧力のオーラが入ること)は必要なこと。拒否しないでほしい(とガイドは思っていた)。拒否していたら大変なことになった。受け入れてくれて良かった。
・カウンセリング中の「安全な時」を選んでオーラを入れた。カウンセリング終了少し前くらいからクラクラして意識が朦朧とし始めたのはそのため。
・今回(追加で)入れたオーラの定着が必要
・過去に自分が取っておいたオーラの一部なので、今のオーラと一応は融和性がある。
・(一時的に)苦しいのは想定内。オーラが定着しない可能性も(一応は)あったが、定着してくれてよかった。
・別の属性のオーラ、とも言える。今までの人生では不要だったために取り除いて取っていた部分。いわゆる守護霊にずっと保管してもらっていた。
・プルシャ(神霊)は常にオーラを頭だけでなく空間から円状に取り入れているので、サハスララだけに頼ってはいない。オーラが更に入ってきたということはプルシャにとって確かに栄養といえばそうだが、食べるという解釈はしなくて良い。食べているというよりは、単にオーラが入ってきた、という解釈だけで十分。食べるという部分は勘違い。喉を通過する時の感覚が食べる時に飲み込む感覚と似ている、というだけのお話。肉体的な感覚と結びつけて、勝手な解釈をしている。
・追加のカウンセラーには、ガイドがシナリオを書いてその通りに言わせた。その前のカウンセラーで良いことを言われて自我の私が有頂天にならないように、その時点での解釈をカウンセラーが完全に否定することでいい気にならないように釘をさす、という意味もあるが、もともとあまり心配はいらなかったようで、不要だったかもしれない。カウンセラーの意見を鵜呑みにするのではなくて、自分の感覚を大切にしてほしい、という意図もあったが、その点も心配なかった。問題ない。
・背骨沿いのエネルギールート(ヨーガでいうスシュムナ)をしっかりと開く方が良い、というのはその通り。
なんだか、久々に苦しい状況を突破して、今は割と落ち着いてきています。
予期せずして急に一度意識が大きな雲に包まれて半分朦朧として、トランスとまではいかないまでも意識が覆われて融合して一体になった、という1日半(昨日の昼から今日の夕方にかけて)だったのかなと思います。特に儀式を受けたとかではないのですけど、まるで儀式を受けたかのように、この間の意識は半分どこかに行っていて、空虚だったように思います。そして、オーラが定着すると同時に意識が戻ってきて、今は、顔はまだ極度の状態から戻ってきたような状態になっています。
当日は瞑想などしてから休んだのですが、翌日、また少し思い出したことがあります。私の子供の頃の幽体離脱で、色々な場面を選んではオーラの追加を行なっていて、おそらくはあの場所で私の子供の頃の幽体離脱したスピリットも私の上にいて、何か私に対してしていたのではないかと思います。おそらくはオーラを私に追加していて、そのためにクラクラして意識が朦朧としていたのではないかと思います。幽体離脱すると時空を越えられますから、自分で未来の自分の状態を調整していたわけです。今の自分としてはかなりその時のことを忘れてしまっていますけど、ふと思い出しました。
もはやその時に何を考えたのか詳しくは覚えていないのですけど、一応スピリットの状態になると過去現在未来を通してそれなりに見地が高まった上で選択していますので、一応は理に適った選択をしてくれています。それは自分が自分自身に対して行う操作ですのでもはや言い逃れはできないのですけど、今となっては稚拙とも思える子供なりの純粋な考え方とスピリットになった状態における知見の広さと言う2つの面で今の私に干渉してくるわけです。微かに覚えていて、と言いますか、最近までほとんど忘れていたのですけど、どうやら、子供ながらに色々と良いように画策したようです。
そのうちの一つが先日のスピリチュアル会場での出来事で、どうやら、思い出すと、子供ながらに思索を重ねて、「一番安全な状態」で私に対して何かのスピリチュアルな操作をしたようです。普段の瞑想や日常生活の時に操作をすると危険なので、私が以前教えて頂いていた先生にカウンセリングを受けている間であれば状態を監視してくれているので変な状態にならない・・・ と、子供ながらに考えたようです。今の私からすると、それよりも家で瞑想している時の方が安全な気がしますが・・・。自分のこととはいえ、子供の考えることはよくわかりませんね。そして、何か操作をしたのですけど今となってはよく覚えていなくて、何を意図したのかわかりませんけど、今後のステップのための準備のようです。
その一環で、どうやら、私の胸の内にある神霊(プルシャ)は一時的に不活性の状態あるいは奥に入ってしまって、いるにはいるのですけど、表には出てこない状態になっているようです。
そのおかげか、実のところ神霊(プルシャ)が入ってくる直前よりも状態としてはおかしくなって不安定になってしまっています。
これはどうしたことかなぁ・・・ と思ったのですが、自分が当時どのように思ったのか、微かながら思い出すと、おそらくは以下のようなことではないかと思うのです。
・カウンセリングを受けて、ほんの少しではあるけれども、いい気になってしまった自分がいるので、そのほんの小さなエゴ(自我)ですらも私の子供の頃のスピリットには気に入らなかった。本当に本当にほぼほぼ完全にエゴ(自我)がゼロにならないと私の子供の頃のスピリットは満足しないようです。そういうところが子供っぽくていいのですけど。そもそも、その子供のスピリット自体にエゴがそれなりについているので、子供の頃の自身のエゴの投影を(今の私に)している、という面もあって、子供の頃の自分のスピリットが今の(子供の頃からしたら将来の)自分を見ることによって、エゴがまだ残っているかのように見えてしまうわけです。確かに、エゴがなくはないのですけどね、生きていますのでゼロにはならないです。そのあたり、子供だけあって純粋で完璧主義ということだと思います。我ながら細かい性格です。
・神霊(プルシャ)に頼ってしまっているのを辞めさせたい。メンタルの安定のためにプルシャなしでもできることは多々あって、それなのに、プルシャがいるから許容度が高くなっていて、それ故に、日常生活に以前より無頓着になってしまっている。プルシャに頼りすぎずに基本的な日常生活をバランス取るようにさせたい。
・次の段階の成長、次のオーラの融合のために、一旦、今あるオーラを無にしたい。これは今の私にはピンときませんけど、スピリチュアルで言われているように「次の段階に進むためには一旦は(比喩として)死ななくてはならない」みたいなことでしょうか。今の私はフラフラしていて、とても(プルシャがいて)健康などとは言えず、先日からかなり酷い状態です。
・私は多少は成長したような気にもなっていましたが、単なる器のようです。
おそらく、あのイベント会場で、私がカウンセリングを受けている時に子供の頃の私のスピリットが時空を超えて今の私の上にいて、姿も変えてそれっぽく見せつつ、今の私に対して操作をしたのだと思います。その操作の結果、今の私の方はかなりフラフラになって数日間は意識が朦朧となっていたのですが瞑想するごとに回復してきて、それでも、今も、気をつけていないと朦朧としてしまいます。
その時の(私の)子供の頃のスピリットの姿に関しては、子供の頃の私は「雰囲気重視」ですから、それっぽい姿になっていたのでしょう。おそらく漫画かアニメで見た服装だと思います。数十年分の漫画やアニメも子供の頃に先んじて見ていましたから、30年前の漫画やアニメだけでなくどこかの時代で見た映像の服だと思います。そして、神様っぽく装って見せたけれども、おそらくは、私自身の子供の頃のスピリットが「ふり」をしていただけなのだと思います。「見たことのない服を着ている神様の姿」とかは起きていることとあまり関係なくて、そもそもアストラルの存在は姿は自由に変えられますし、本当に高次の神様に姿はないですし、姿があるというのは、何か意図を持って、あえて、わかりやすいイメージを伝えているわけです。我ながら子供ながらにこういう演技をよくするものですね・・・。我ながら「よくやるよ」と、思うのと面白いのが半分です。
それにしても、子供の頃の私は一体何を考えて(将来の30年後の)自分にこんなことをしようとしたのか・・・。そのきっかけまでは思い出せません。思えば、ガイドがスパルタというよりは、私の子供の頃のスピリットがスパルタで、今の私に対して随分と厳しいことをしてくる、という方が正しいかもしれません。
単なる不調ということであればもっと基本的なことを気をつけないといけないのですけど、この、私が子供の頃に幽体離脱したスピリットと遭遇する時は割といつもスピリチュアルの大きな成長とスピリチュアルの危機が半々なのです。今の私はこのことで大きく変化はするのですけど、私の当時のメンタルの状態というのは酷くて学校では虐めにあっていたり家庭ではモラハラ受けていたり、とにかくストレスが高い状態でしたので、そうしてストレスが過敏になっている日々の中で寝ている時などに幽体離脱していたわけで、その当時のストレスな状態をベースとした当時のスピリットが時空を超えて(今の)私に接触してくると、その重たい波動が伝わってきて、重さとして乗っかってくるわけです。
例えば、私が最初にクンダリーニと言いますかイダとピンガラの覚醒をした時に、確か子供の頃のスピリットが当時の私の体の状態を見て「あぁ、エネルギーのルート(ヨーガでいうナディ)が随分と詰まっているな・・・。このこびりついた汚れを取らないとね」と思って、ゴシゴシと汚れを取ってエネルギーの流れを良くした結果、その数日後くらいにイダとピンガラが覚醒したように思います。そうでなければ片方だけ覚醒して不安定になったりその後7年とかずっと覚醒しなかったり、今よりも遥かに時間がかかっていた筈だと思います。汚れを取ってくれたり何かしてくれるのは良いのですけど私の体の中に入ってきますので、子供の頃の葛藤などのオーラも融合して、その苦労もまた引き受けてしまうのです。良い面と悪影響と、両方の面があります。とは言いましても、結局は自分のことですので仕方がないといえばそうなのですけど。
このように、私の子供の頃のスピリットというのは2つの側面があって、今の私のスピリチュアルな成長を加速させるという側面と、子供の頃の葛藤が伝わってきてしまって一時的に辛くなる、という側面があるわけです。スピリットの状態ですと見識も広がってハイヤーセルフや守護霊とも相談できますしスピリチュアルな操作もできるようになりますのでその状態で子供の頃のスピリットは時空を超えて未来(それはつまり今の私)の操作をしてクンダリーニにせよ何にせよ調整してくれるのはいいのですけど、操作をする時にオーラが接触しますから、子供の頃の葛藤のオーラが伝わってきて不調をきたしてしまうわけです。
ただ、これはもう、過去に自分がやったことですから、割とわかっていることですし、一時的なものですので長期的な問題にはならないのですが、そうは言いましても実際にそれをされる時になると数日から1週間はメンタルに不調をきたしてしまいます。この種の、私にとっては定番の接触が先週末にあって、いつものように危機になって3日ほど経ってようやくメンタルが安定してきたところなわけです。おそらくは、こういう状態ですのでプルシャは奥に引っ込んでいて出てこないのかなとも思います。ひとまず今は、元の自分の部分だけで瞑想をして安定させることにします。
実のところ今回のスピリチュアル・イベントから数日の間に何か変化がある予感はしていて、辛い状態になることはわかってはいたものの、具体的には一体どうなるのかと思っていたのですけど、こういうことだったようです。ここまで来て、もうそこまで辛いことはないかなと思っていたのですが急に辛い状態になってなかなかしんどいですが、一時的でせいぜい1週間だけということであれば問題なく耐えきれます。
記憶では、一時的に苦しいけれども安定すれば1段階上がる筈ですが。記憶ではせいぜい数日でしたので、その点も、記憶と一致します。その後は・・・ 記憶通りになるのかどうかは今後の見定次第です。
子供の頃のスピリットが来る時はいつも唐突で、何となく予感はあるのですけどあらかじめ何があるのか私にはわからなくて、今回のことにしても当日は意味がわからなくて単に意識が朦朧としていただけでしたけど、終わって数日経ってから、「あぁ、あれは、こういうことだったのか」と気がついた次第です。
とは言いましても、鏡で自分の姿を傍目から見たら単なる霊障かメンタル不調な人で、こんな解釈なんて不可能です。
自分がカウンセリングをする側になったとして、こんなこと見抜けないなぁ・・・ と思いますし、見抜いたとして、妄想かもしれないと思うだろうなぁ・・・ という客観的な感想です。普通、こんなこと言われても信じないと思いますが、これが一番しっくりくる解釈で、特に疑問や違和感はないのです。
このままプルシャ(神霊)と意識が融合していくのかと思いきや・・・ なかなかの急展開。 我ながら、自分がどうなるのか予想もつかず、終わった後に思い出すくらいで、子供の頃の自分が作ったシナリオは、なかなか楽しませてくれます。
それに加えて、小娘の言われもない恨みも遠距離でぶつけられていて、なかなか難易度の高い状況になっています。これ、最初はごっちゃになっていたのですけど、個別の要因がそれぞれ独立してあったのでした。
▪️3〜4時間の瞑想で霊障っぽい緊張状態から回復
スピリチュアルイベント会場の出来事以来、久々に1週間ほど霊障のような緊張状態が割と続いておりましたが、週末にしっかりと3〜4時間の瞑想をすることでほぼほぼ回復。最初に鏡で見た自分の顔は緊張と強張りがありましたが、1時間おきくらいに鏡を見て、緊張が少しずつ取れていくことを確認しました。どうやら、小娘の件の単体だけであれば影響が無視できる程度の恨みの念だったようですが、スピリチュアルイベントの時に別の要因があったために不安定になり、その状態で影響を受けてしまっていたような感じでした。
ほぐれる間、頭の各所で「ミシッ」「パキッ」「ゴリっ」「ポキッ」という、骨の鳴るような音が聞こえては緊張が少しほぐれる、と言うことを、きちんと数えてはいないですけどおそらく50回以上繰り返しました。数回とか散発的には以前からありましたけど今回は回数も内容も激しいです。
瞑想の基本は眉間に集中することですけど、眉間に集中しているとポキッと骨のようなものが鳴って少し緊張がほぐれ、そうすると、少し緩んだことにより他の場所がちょっとした緊張状態になりますので、続けてその場所に集中しているとゴリっ、とか、ポキッ、という音と共にまた緩みます。体の中心軸だけでなく、例えば顎の周辺に集中していると、そこが緩んで口元が左右に広がり、少しだけ笑顔の表情に近づきます。それを左右それぞれ繰り返したり、あるいは、喉元の左右、そこはイダとピンガラという体の左右を縦方向に走っているエネルギールート(ヨーガで言うナディ)がありますので、イダとピンガラをしっかりと通して上げて、ほほのあたりを通って目元までエネルギーの道を通してあげます。耳元に集中してピキッ、と言う音の感覚と共に体が緩んだり、再度眉間に集中して頭の中心軸のあたりを緩ませます。先日は頭の中心軸のところで連続してゴリゴリ何度か段階的に緩んだりしましたが、本日もまた、同じようなところで細かく段階的に緩みました。頭頂の付近にも緊張がありましたので集中していると緩んでサハスララが開いた状態になり、週末から閉じたままでいたサハスララも再度少し開きました。
瞑想の基本は「意識は集中するが、力は入れない(筋肉は動かさない)」と言うことなわけです。これはインドのヨーガ、例えばシヴァナンダ等の教えで瞑想の基本として教えられていることですけど、この基本がこれらの緩ませには重要になってきます。瞑想に慣れていないと意識を集中する時についつい肉体の力も入ってしまったりするわけですけど、きちんと意識して、意識だけを集中して、肉体はリラックス状態にしておくわけです。
そして、最近は「無心の瞑想」をしていて、無心の瞑想とは言っても雑念は時々出てきますけど、それは受け流して、無心に戻って瞑想をするとどんどんと体がほぐれてリラックスが深まっていきます。瞑想をしてまだ日が浅い場合は1段階だけでも緩めば十分だったりしますけど、慣れるうちに数段階続けて緩ませるようになります。無心の瞑想をするとその過程が早まりますので、時間さえ許せば一気に何段階も緩ませることができるというわけです。
今回、基本は単にエネルギーのルート(ヨーガでいうナディ)が詰まっていただけでしたけど、背中のあたりに何やら変なものが入り込んでいたかもしれなくて、数時間経ったくらいでそれに気がついて、背中を摘んで引っこ抜こうとしたもののうまく引き抜けなくて、その代わりに、そのエネルギーが実体化してイメージに見えて、何やら「蜘蛛」のような気持ちの悪い足が何本も見えてゾッとしたわけですけど、それが特に意識を持っているわけではなくて単なるイメージで止まっていましたので、この種の動かないものは一度イメージで見えて実体化してしまえば対処は簡単で、イメージになったものを炎のイメージで燃やして浄化してしまえば良いわけです。どうやら、何かのエネルギーをもらってしまっていたようです。先日の、言われもない誤解で恨まれていたオーラの念が入ってきていたのかもしれません。
その蜘蛛のイメージを燃やしてからは瞑想は調子が良くなり、鏡で見た表情も柔らかくなってきました。この種の恨みのオーラは、基本的に影響を受けなくなっているものの、多少なりとも「受け入れる」姿勢を見せた相手の恨みのオーラは通り抜けてしまうように思います。まあ、私も脇が甘いということですね。違和感のあった相手に対して気を許した私が甘かったわけです。なんとなく、今回の不調の原因が見えてきました。自分の脇の甘さで、多少ながら「受け入れ」の姿勢を見せたことにより恨みのオーラを受けてしまった、ということのようです。
その後、普通に更に数時間の瞑想をして、再度、各所を何度も段階的に緩めて、その際にもポキッと小さく何度も鳴りつつ緊張が段階的にほぐれていきました。今までの瞑想では割と十分と思えるくらいにまで回復したものの、今回は念入りに更に瞑想を続けて、やがて、1段階、静寂が深まりました。
そもそも、この不調があってからは静寂の段階が浅くなっていて、静寂から何段階か離れた段階になっておりましたので、少なくとも、1段階、静寂が深まったわけです。いつもはもう1段階くらい静寂が深まるのですけど、まぁ、このくらいの静寂であってもひとまず病み上がりとしては十分のように思います。
▪️どうして昔の私はそのようなことを計画したのか
・・・その後、ふと思い出したのですが、どうやら30年前の私が思ったことは「ほんの少しの傲慢さも許してはいけない(と、今の、将来の自分に対して思っている)」とのことで、その時、子供の頃のスピリットの私が将来の私(今の私)に対して行ったことは、精神の高次の部分を一旦取り除いて肉体に近い部分だけ残してしばらく過ごさせ、高次のスピリットがいない私の肉体および顕在意識(メンタル、マインド)というものは「切り離されていて」「惨めで」「小さな存在」なのだということを、3日間かそのくらいの間、強制的に経験させたのでした。となれば、我ながら、自分が子供の時にしたこととはいえ、なかなかのスパルタです。どうやら、あまり分離の状態を長く続けてしまうとオーラの定着が悪くなってしまうためにこのくらいの長さにした、という側面もあるようです。スピリチュアルの成長において障害になってくる大きな要因の一つとして「(スピリチュアルな)傲慢さ」というものがありますが、私の場合、子供の頃の自分が将来の自分に対して、このあたり、とても厳しいようです(まあ、自分のことなのですけど)。そういえば、先週末のスピリチュアルイベントでとあるカウンセラーから「あれ。一旦、(高次のスピリットが)出ていくみたい? その後、また戻ってくる? なんだか、色々入るみたい?」みたいに言われて、その時は「なんのこっちゃ?」と思っていたのですけど、どうやら、自分が自分で計画したお話だったようです。普通はこんなことしないようですので、自分のこととはいえ、無茶なことしてくれます。
やろうと思えば肉体に近い部分と高次のスピリットは分離することができて、それは割と一瞬で行うことができて、いま心地良かったり幸せな気分だとしても、それは高次の部分があるからで、肉体に近い部分は「器」でしかない、ということを今回のことでよく理解できました。「器」としての肉体及びマインドの方は高次のスピリットに仕える側で、それは一応は両方とも私ということではありますけど、高次の私が宿っていてくれるからこそ幸せだったり満たされた状態であるわけで、肉体に近い部分はただの物体と論理的なマインドという、割と道具に近いものなわけで、肉体だけでは人間は惨めである、ということです。それは割と一瞬で変化しますので、肉体および思考するマインドの側は勘違いしないように、勘違いして傲慢になったりしないように、そして、低次の部分の私は高次の部分の私が宿っていてくれることを「大切」に扱いましょう、ということを理解させられました。
「うやうやしく接する」なんて言いますけど、自分と基本は重なって胸の奥にいてくれるとはいえ、そちらが大切であって、肉体及びマインドとして思考している自分の方は低次の存在なわけです。その、低次の存在である私が、胸の奥にいる高次の私に対して「うやうやしく接する」という姿勢、大切に扱うという姿勢が大切なのではないかと思います。
勘違いをして、まるで低次の私が成長したかのように思ってしまうこともあって、そのことを諌めて、このようなことをしたように思います。実際は、低次の私は仕える側であって、最初から高次の私に主権があって、高次の私がいなければ低次の私の方は現実に翻弄されるだけの惨めな存在でしかない、ということをこの3日間で思い知らされました。そして、元に戻ってきてから数日経って、ようやく、何が起きていたのかを理解したわけです。
確か、この傲慢さが少しでも残っている間は残りの高次の部分を融合させない、まだその時期ではない、と思っていたような気が致します。であれば、今の私がすることは、あまり気にせず、今まで通り「無心の瞑想」をして頭の中のエネルギー的な詰まりを取ってサハスララから常に繋がれるようにすればいいだけ、ということになるかと思います。あとは時期が来たら次の段階へと進むのでしょう。
▪️器はスピリチュアルな傲慢さを克服する (4/3)
・・・後日、なんとなくそんな気がしますので書き留めておきます。
どうも、このような「惨め」な感覚は、いわゆる幽体離脱をした時、あるいは、幽体離脱よりも高次のスピリットが(物理的な)体から離脱した時に、残された体の方が思う感覚なのかもしれません。幽体離脱する方、あるいは、高次のスピリットはその段階相応に「満たされている」存在なわけですが、残された体の方は「器」でしかなくて、器でしかない肉体および(思考する)マインドが器であることを忘れて自尊心を高めるのがエゴであり、傲慢になる、ということかもしれません。ガイドが解説するところによれば、そのように、器である、という点だけにおいてはキリストであっても同様で、もちろんキリストくらいのレベルになりますと肉体とスピリットがより確かな形で三位一体になっているわけですけど、それでも、肉体と(思考する)マインドという点だけを取ってみるとそれは器であることには変わりがない、ということのようです。
このように、それなりにスピリチュアルに成長したと思っていても高次の部分が(肉体から)離脱した瞬間に惨めな肉体と思考の塊に戻ってしまうということは、所詮は肉体と(思考する)マインドは器でしかないということを一瞬にして体験させられるように思います。そして、おそらくは、今後またそのようなことは(幽体離脱などで)普通にあるので、そのようなことがあっても器としては揺らがずいてほしい、という、訓練のような意味もあったように思います。
どこまで行っても肉体と(思考する)マインドとしての「私」というものは「器」に過ぎず、高次の自分(いわゆるスピリット)が本当の自分の意思および意識であり、スピリットが意図してスピリットが思考してスピリットが決定する。器はどこまで行っても器でしかなく、器としてできることは器である肉体と(思考する)マインドを清めること、それこそがスピリチュアルな訓練なわけです。器なくしてこの地上と関係を持つことはできず、器も大切になものであり、器がどれだけ純化されて透明でいられるかによって高次のスピリットがその顕現をどの程度まで地上に表すことができるかが決まるわけです。スピリチュアルの障害になることの一つが(スピリチュアルが成長したことに伴う)スピリチュアルの傲慢さで、他のことであればともかく、スピリチュアル自体が傲慢さと結びつくとなかなか改善しにくい。よって、器である体から一旦、高次のスピリットが(幽体離脱のような形で)一時的に出ていくことにより肉体と(思考する)マインドはそれだけでは惨めな小さな存在であることを思い知らされ、それにより、スピリチュアルな傲慢さを克服することができる。スピリチュアルな傲慢さは、ほんの小さなものであったとしても力と知識が増大するにつれそれが問題になり得る。よって、ほんの小さな傲慢さですらも見落としてはならないわけです。
高次の自分であるスピリットはそれ自体で経験を蓄積しているが、肉体の私からすると、急に来たように感じる。それでも、高次の自分であるスピリット自体はそれ以前から存在していて、スピリット自身も日々学んでいる。そのスピリットが器である肉体と一緒にいたり、離脱したり、ということを行う。それに伴い、肉体と(思考する)マインドの方は高次のスピリットが離れてしまったように感じ、それに伴い、惨めな感覚になる、ということかと思います。
満ちている感覚すらも一瞬で消えてしまうのは、消えたというよりは、高次の自分が一時的に離脱したということ。その意識はどこかへ行ってしまっていて、残された器としての体は惨めな思いをするということだと思います。そしてそれは、特に嘆くことでもなく、そんなものだと思うわけです。器としての人の体とマインドはその程度のものではありますけど、それでも、それがないと高次のスピリットは地上に関わることができませんので、それなりに大切なものなわけです。ですけど、肉体は一時的なもので朽ちるものですので、所詮はその程度のものなわけです。
この辺りに関連して、スピリチュアルの流派あるいはスピリットのやり方次第では次の段階に行く前に「(儀礼的に、比喩的に、意識が)死ぬ」ということを行うのかもしれません。文字通りの肉体の死ではなくて比喩的にそう言っているわけですけど、一時的に高次のスピリットが誰がしかの体から離脱して肉体と(思考する)マインドだけの存在に戻ることを比喩的に、儀礼的に「死ぬ儀式」などと言って行われている場合もあるような気が致します。そうすることでマインドが浄化されて傲慢さが(ある程度)克服されて、次の段階へ行くための準備とする、という場合もあるように思えるのです。実のところ、そんな気が一応はしておりますが、本当にそうなのかどうか、確信はないのです。機会があれば確かめたいと思いますが、今のところは、そうかもしれないな、というくらいです。
・・・ここまで思い出したりガイドに教えてもらったことを踏まえると、どうやら、(分かってはいたことではありますが)私は30年前の自分が幽体離脱した時に計画したシナリオに沿って動いていて、その手のひらで踊らされている状況、ということのようです。自分が計画したこととはいえ流石に細かいところは忘れていますから、実際に時系列を追って経験してみると、意外に新鮮味があります。
現時点で持っているトラウマとか心の傷みたいなものは大体は克服してきているわけですけど、この種の、実態そのものが原因の変化についてはどうしようもなくて、高次のスピリットは基本的に体と重なっているのだとしても、一時的に離脱することはあるわけです。その時の、肉体側の感覚の変化はどうしようもないわけです。
高次のスピリットを感じて「満ちている」状態であったとしても急に高次の自分が離脱してふとそこに残されるのは取るに足らない自分であり、過去においても愚かな行動をしてきた自分でしかないわけです。問題のない行動も多々あったとしても課題になるのは愚かな行動の方で、意識が澄み渡るにつれて過去の行動もつぶさに思い出すようになりますから、過去の行動の清算も課題になってくるわけです。キリスト教の懺悔でもないですけど、過去の行動をフラッシュバックで見せられて反省させられる、ということが多くなってきているように思います。その時、高次の自分が対峙するというよりは肉体と思考の自分が過去の行動と対峙するので、一時的に高次のスピリットは離脱していることが多いように思うのです。