何やら最近、アストラルの感情的なものが湧き出てきていて、一見すると魔境だとか階梯が後戻りしたかのような気もしていたのですけど、実のところ、この段階に来て初めてアストラルなものをしっかりと完全に扱えるようになった、ということなのかなと思います。アストラルな感情をうまく扱うには自分がそれ以上の段階に達していないと無理で、次の段階のカーラナ(コーザル)くらいですとまだ翻弄されていて、プルシャがそれなりに優勢にならないとアストラルな問題をうまく扱えないのかな、という気も致します。
とは言いましても、おそらく、こんなことは世の中の多くの人にしてみれば当たり前のことで、特に健康的な女性にしてみれば当然過ぎることで、何を今更こんなことを言っているのか、と思われるかもしれません。そういう種類のものなのかなと思います。世の中の女性が若い頃から思春期にかけて学ぶ感情の多種は、おそらくは多くの男性にとっては当たり前ではなくて、それ故に、女性の感性・感情と男性との認識の間でかなりの乖離が出来ているように今更ながら思いました。
今は、ようやく、その一歩を踏み出しただけのお話で、全くもって、これが優れているとか凄い境地に達したということでもなくて、世の中の女性が当たり前のように学ぶことを今更ながらほんの少しだけ学んだだけのことのような気が致します。
散々暝想してきて、辿り着いたところはなんてことはない、割と普通のことだったわけです。
となれば、私は今までの人生を、なんともったいない感情のまま経験してきたことかなと思います。それぞれの経験を完全なる感情でしていれば違った結果になったことも多々あったでしょうし、今更嘆いても仕方がないですけど今後は完全なる感情をなるべく達成できるようにしてゆきたいですし、過去の眠っている古いエネルギーも瞑想で呼び起こして完全なる感情へと昇華する必要性を感じています。
最近の瞑想で頭のブロックがそれなりに解除されましたが、単に頭の回転が(多少)良くなったり滑舌が(多少)良くなっただけではそれだけのことで、それに加えて感情的なものを「完全なる感情」にしてこそ人間として完全になるように思います。瞑想の行き着く先は、ここにあるようです。
瞑想をしている人が行き詰まってしまうように感じるのは、静寂の境地や観照の段階の上にスピリチュアル的な何か超越を求めているから誤認したり魔境かのように思ってしまうのであり、実のところ、現実というのは多層の次元で成り立っていますので、高次もあれば低次もあり、物理的なものからアストラルの感情、そして論理に至るまで、三位一体で完全を目指すのが本筋な筈なわけです。それは大乗仏教やキリストが言っているような道徳や愛のある生き方ということであり、何か特殊な別の世界や状態になってしまうという超越的なオカルトのお話とは少し異なるわけです。
時に道に迷って、静寂の先に超越的なものがある気がしたり、何か別の世界がある気がしたりすることもあるかもしれませんけど、なんのことはない、結局はこの世界に住んでいるのであって、目指すところは三位一体であるわけです。そのことがわかってしまえば魔境なんてものもあるようでいてない、ただ単に不完全な感情というだけのお話で、魔境も含めて完全なる三位一体を目指せば良いと思うわけです。
不完全な感情が出てきたら、瞑想、あるいは、祈りによって完全なる感情へと昇華させます。ただそれだけのことです。それは、壊れた水晶球のような胸のオーラの状態を完全なる水晶球のような胸のオーラへと修復すれば良いわけです。エネルギー的な変容がそのまま感情としての修復になり、壊れた不完全な感情は完全なる感情へと変容・昇華します。
その基本が集中や静寂であり、また、アジナから喉のヴィシュッダを通ってアナハタまで背骨沿いのスシュムナを通してエネルギーを通すことでアストラルの感情が活性化して、不完全であれ完全であれ感情を正しく扱えるようになります。この、完全なる感情とは、普通の感情のほかに何か別の感情があるわけでもなく、普通の喜怒哀楽、喜びも悲しみも嘆きも楽しみといった全ての感情を完全に体験することなわけです。どこまで完全に感情を実現できるかは人それぞれであって深みは状況や人それぞれあるのだと思います。
スピリチュアルをやっていると、時に、アストラルの感情面を低いものとみなしてカーラナ(コーザル、原因)あるいはプルシャを上級というように階層的にみなしてしまいがちですけど、実のところワンネスでありますから、ヴェーダンタ的に言えば全てはイーシュワラであって全てはブラフマンでありますから、そこに高低はないわけです。高低があるように感じているのは、それはただ単に不完全な感情である、というだけのお話のようです。感情自体は知覚器官からもたらされる単なる心の動きであって、それを完全なる感情として経験すれば良いわけです。
感情が壊れているから不愉快になったり不調和をもたらすのであって、完全なる感情は(喜怒哀楽どれであっても)調和であり昇華されます。
不完全な感情には善悪がありますが、完全な感情には喜怒哀楽いずれであっても善悪はありません。実のところ悪というのは不完全なだけで、悪を排除するというよりは、悪というものは不完全なわけですから、完全なものへと修復すればいわゆる善になるわけです。これは言葉では伝わりにくいかもしれません。行為としての善悪のお話ではなくて、感情としての善悪は本来ない、というお話で、感情としてのいわゆる悪と一応言えるものは不完全な感情というだけのお話ですから、完全な感情へと修復するあるいは置き換えると良いわけです。
これを言い換えれば、不完全な感情には愛が足りないということでもあり、完全な感情というものは喜怒哀楽いずれであったとしても愛なわけです。
そのことを、あり得ないロミオとジュリエット仕立ての物語で理解させて頂きました。ドラマとしての物語としては3流であっても、このことを理解するために、あえて不自然な点をいくつか残していて考えさせるようになっており、なかなか良い構成だったように思います。
ただ、この時点では非現実的で支離滅裂と思っていたその物語が、その後、意外にも、様々な意味を持つものとして解釈、理解できるようになるのです。