胸の中に入ってきたプルシャ(神霊)は、子供の頃は「光の玉」と呼んでいました。
ふと、このことを思い出しました。確か、生まれる時に、普通に顕在意識で備わっている意識の他に、いざという時に回復するための緊急用として「光の玉」を3つほど持って生まれ出たように思います。そのような記憶を思い出しました。
先に書きましたように子供の頃は周囲の虐めやモラハラで苦労しましたので、早くも、小学校の高学年の頃までには3つとも使ってしまったように思います。
精神的に追い詰められて苦しくなって、精神崩壊して狂ってしまいそうになると、その直前で、この「光の玉」を使うことで急速な意識の状態の回復が起こり、精神崩壊を免れていたように思います。
その当時はそれが何か分からず、単に、生まれた時に持ってきた3つの「光の玉」として認識しておりました。
そして、小学校高学年で使い切ってしまいましたので、その後はそれに頼ることができず、高校時代にはメンタルを壊してその後、数十年に渡ってメンタルの問題を抱え込むことになってしまったわけです。
虐める側はエネルギーを奪おうとして執拗に精神を壊そうとしてきますから、光の玉なんてのは狙われるわけです。
狙われたとは言え、一応、その光の玉で当時のメンタルは助かりましたので有益だったと言えるのですが、この光の玉は使い切って終わりかと思っていました。新たに補給できるとは当時は思っていませんでした。
ですが、おそらくは、最近入ってきたプルシャ(神霊)は、私が子供の頃に認識していた「光の玉」そのもののように思うのです。そして、当時は、「光の玉を使うことでエネルギーが補給される」と思っていたのですけど、今から思えばその解釈は少し違っていて、「光の玉が破裂して壊れてしまうと、一時的にオーラが増大してメンタルは回復するが、光の玉は、使っているのではなく、壊れてしまう。壊れる時にオーラが拡散し、一時的に元気になっているだけ」というのが実態なのではないかと思うのです。
ただ、それは本来の光の玉の使い方ではなかったようにも思うのですが、そのようにも使えるものだと思います。
ゲームあるいは漫画で例えますと、エネルギーを貯めていた水晶球のようなものを使用してしまうことで使用済になり、場合によっては道具としての水晶球を物理的に壊すということもあるかもしれません。そのように、使用してしまうことで、道具は使用済の状態になって、もう使えなくなってしまう、あるいは、道具としてはもう捨ててしまうしかない、効果を発揮してしまった道具はいわゆる「壊れた状態」になってしまうわけです。
このように、子供の頃は「光の玉」として、道具のように認識していたわけですけど、実際には「プルシャ(神霊)」だったのではないかと思うのです。となれば、プルシャ(神霊)が自らの命を投げ打って崩壊し、犠牲になることで私の精神、心の崩壊を防いでくれた、というのが真実なのかもしれません。となれば、プルシャ(神霊)が(比喩として)死んでしまい、それはいわば身代わりになってくれたわけです。
プルシャ(神霊)は自分の魂の一部でもありますから基本的には崩壊しなくて消えたりはしないのですけど、おそらく、私のところに留まることができずにグループソウルに戻って行った、崩壊して私のところからは去っていった、私の胸のうちに留まることができずに体から離れてしまった、その時に、エネルギーとして私を最後に助けてくれた、ということなのではいかと今更ながら思うのです。
となれば、子供の頃は「光の玉」でメンタルが助かったと思っていて、それはそれで現象としては一応は正しくはあるのですけど、実のところ、プルシャ(神霊)が犠牲になって身代わりになってくれたので私のメンタルは崩壊せずに済んだ、というのが真実な気がするのです。
その光の玉(=プルシャ、神霊)を生まれた時には3つ持っていて、子供の頃に3つとも使ってしまってその後はメンタル(心)が壊れて数十年も心が壊れた状態のまま苦労をしてきたわけですが、ここに来て、ようやく1つ取り戻した、あるいは、新たに入ってきてくれるまでメンタルが回復した、ということのように思います。子供の頃に使ってしまったものと全く同じプルシャかどうかまではわかりませんが、質としては同じものであるように思います。
記憶を辿ると、「光の玉」が1つだけ残っている状態というのは割と弱々しくて、それは私の今の状態にも言えて、私はまだプルシャ(神霊)1つ分と言えますので、不完全な不安定な状態であるように思います。
・生まれた時 自身のメンタル➕光の玉3つ
・小学校高学年 自身のメンタルのみ(光の玉は使い切り)
・高校時代 心(メンタル)が壊れる(光の玉はもうない)
・その後 壊れた心(プルシャもない、あるいは、体から離れている状態。体にプルシャを感じられない状態)
・最近 心(自身のメンタル)➕(サハスララから入ってきた)プルシャ(おそらく光の玉と同等)
そもそも今までずっとプルシャ(光の玉)がないような状態が数十年は続いていましたので、よくもまあ、これが1つもない状態を今まで生きながらえてきたものだと自分で自分に感心致します。プルシャ(光の玉)がない人生というのは暗闇だと思います。もし世間の多くの人がプルシャ(神霊)なしで生きているのだとしたら人生において愛がなかったりするのも当然と言えるかもしれません。それはそれで機械的な人生を相応に過ごすのだと思います。
記憶を辿ると、光の玉が3つあると感受性にせよ感覚にせよ別物ですので、今の段階はまだまだ最初の不安定な段階でしかないように思うのです。当時、光の玉を2つ使ってしまって1つしか残っていない時点で既にかなり危機的なメンタル状態で、光が薄くなり、影が多くなってしまっていたように思います。それは今の私の状態とも(おそらく)一致します。
気をつけなくてはいけないのは、また今後、この光の玉(=プルシャ)を使ってしまうような(光の玉が壊れてしまうような)メンタル不調になってしまわないようすることだと思います。そういうこともあって、少し前から、「このプルシャ(光の玉、神霊)を大切にしてください」、というメッセージを受けているのだと思います。
子供の頃の「光の玉」を思い出すことで、実はそういうことで、子供の頃の理解が違っていたのかもしれなくて、(まだ仮説ですけど)おそらくこの新解釈が正しいのではないかと思います。
であれば、今後、そこまで精神的に疲れる行動は控えて、メンタル最重視で生きるようにする必要が(今まで以上に)あるということだと思います。
しばらく思い違いをしていて、どうやら私は無自覚的にプルシャを子供の頃と同じように扱っていて、光の玉(プルシャ、神霊)についつい頼っていたように思います。だから、その態度を改めさせるために一旦光の玉(プルシャ)を引き抜いて素のままに戻してからプルシャに頼らないように学ばせたのかなと思います。むしろ、肉体および精神のマインドはプルシャを守るのが役割なわけです。器としての体はプルシャ(神霊、光の玉)を守るのが本来の役割なわけで、プルシャは胸の奥に「雛人形」のように、あるいは「精霊のように」微笑んでいますから、プルシャを頼るのはよっぽどのことなのです。基本はプルシャは頼らないのです。プルシャは光り輝いていて、肉体とマインドの私は胸の奥におわせますプルシャを祀っているようなものなのです。最近の脇の甘かったお話も、このあたりを学ばせるために用意されたシナリオではないかと思うのです。
通説ではプルシャは一つですが、おそらく、プルシャ(光の玉)は3つとか持てて、しかも3つが上限ではなくてもっと持てるのですけど、おそらく3つもあればとりあえず十分のように思います。実際のところ、普段は3つとか数は意識しないですけどね。
3つあるいはある程度にまでメンタルとプルシャ(神霊)が強化されるまでまだまだ先があるようにも思います。
今は1つ目で、そもそも体の方が追いついていなくて全然使えていませんので今は体を再構成していて、2つ目以降は体の受け入れ準備がそれなりにできてからになるような気がしていて、今はまだ準備の段階のような気が致します。