精神崩壊した高校時代

2023-05-07 記
トピック:スピリチュアル: 回想録

実のところ、高校時代の私のメンタルはアニメのZガンダムのカミーユのラストほどではないですけどある程度はあのように精神崩壊の状態だったように思います。授業中は口を「ぽかーん」と開けて、数学の先生からは口をぽかんと開けてバカっぽくしているところを指摘されてバカにされていたり「お前は大学はどこも絶対受からない」と教室で皆の前で「絶対に」を強調されて何度も公言されていましたけど実際には受かって、どうせまぐれかギリギリだろとか捨て台詞を何度も言われたわけですけど、私は当時、目の焦点があっていなくて、かろうじて意識を失わないように半分寝ぼけたような朦朧とした状態でいつも生活していたわけですけど、同じ教室の性格の悪い女の子からは頻繁に「ばーか」と言われていましたし、同じ教室の性格の悪い男からは頻繁にゲラゲラ笑われていました。私はかろうじて精神崩壊しないようにギリギリのところで心を繋ぎ止めていたわけですけど、辛い高校時代が基本にあったように思うのです。ですが、記憶を辿ると、そのような辛い記憶は全然出てこないのです。アニメのカミーユは、確かラストで記憶喪失になって辛い頃の前しか覚えていない状態になるのですけど、実のところ、私も高校と大学の辛い記憶は私の中で消してしまって、ほとんど思い出せないのです。記憶を消しゴムで消してしまったかのように同級生の顔と名前が思い出せなくて、かろうじて、仲の良かった人や好きだった子の名前ですらかすかにわかるかわからない程度で、最近は、そのような人ですら、思い出すのが困難になりつつあります。時間が経つことで記憶が薄れるのは普通だとしても、大学に入ってからは高校までの記憶を積極的に記憶を消そうとしていて、卒業してからも、大学までの記憶を積極的に消そうとしていました。選択的に記憶を消すというよりは(好きだった子とかの記憶も含めて)まとめて時代ごとにバッサリ消していたように思います。ですから、たしか好きだったような気がしていた子であっても、今となっては、ほとんど思い出せないのです。その時代が丸ごと辛すぎて、記憶からバッサリと消えているのです。私は、過去の人生をリセットして人間関係にせよ記憶にせよ何度もやり直す、ということを特に若い頃は繰り返していて、その度に、過去の記憶を積極的に消していたように思います。ですから、この話で出てくる同級生にしてもT大の子にしても、辛いことがある度に記憶を消していましたから、ここ数十年、思い出すことすらほとんどなかったわけです。自分では、今まで「記憶なんて忘れっぽくて、そんなものかな」と思っていたり、私は記憶障害なのかもしれないと疑ってこともありますけど、記憶力それ自体であれば私は小学校の頃は教科書を暗記するほど記憶力が良かったわけですし、地の記憶力は良かったはずなのに高校時代はメンタルを壊して記憶が困難な状態になって、そうであれば、高校時代の記憶が思い出せないのは、今から思えば、それは精神疾患だったのではないかと思うのです。その初期症状は小学校の頃に始まって、(少し前に書きましたけど)私は生まれた時から胸の奥に光の玉を3つ持っていたと思っていて、同級生に虐められたりとても辛いことがあって精神萎縮になった時、それが一つづつ、文字通り「壊れて」、その結果、その壊れた光の玉から溢れ出た愛のオーラによって精神が回復する、ということを繰り返してきたように思うのです。これは気のせいではなくて、実際、その、光の玉が壊れた時のことを思い出すことがあり、本当に胸の奥で何かとても大切なコアみたいなものが割れて壊れて、大切な人が身代わりになって死んでくれたのかと思うくらい何か大切なものを失った気がして、涙が出るくらい悲しかったのと引き換えに自分の精神がある程度だけ一時的に回復しました。しかし、長期的に見れば精神がどんどんと弱っていったのです。それは他の人に言わせると「気のせい」「そんなことないでしょ」とか言いますけど、他の人の意見なんて関係なくて、誰がなんと言おうと現実だったように思います。それは私のとても大事な精神が壊れるのと同意で、壊れると一時的に気持ちは回復はするものの光の玉が1つづつ壊れるごとにグラウンディングが段階的に弱まった状態になって、小学校の頃に早くも3つ共壊れてしまったのでグラウンディングがほぼ失われてしまったわけで、精神が不安定な状態になってしまったのです。そんな状況では勉強もうまくできません。その後、小学校高学年と中学の時代はなんとかやり過ごしましたけど高校時代に同じように精神的に苦しい状況になったら、そのまま精神崩壊してしまったのでした。アニメのカミーユの最後ほどではないにせよ、高校の教室で上の空で少し上を焦点も合わずになんとなく見ていて、頭はちょっとフラフラ動いていて、口は「ぽかーん」として意識が朦朧としていて、教室の窓をよく見ていて、いつも「もう無理。早く卒業が来ないかなあ」と思っていたように思います。母からは「口を閉じなさい。馬鹿っぽい」とよく言われていましたけど、家でも精神崩壊していました。そのような状況では勉強も進まないのは当然で、受験科目だけ最低限やっていて、それに加えて、プログラミングの趣味だけは熱心にやっていました。そのような記憶が一応はあるのですけど、自分のことのように感じられず、ただ記憶があるだけになっています。あまり思い出せないのです。意図的に過去の記憶を消すように心がけていたように思うのです。その、一旦は忘れてしまっていた記憶の中に、同級生で私がおそらく好きだった子の記憶や、大学時代にすれ違いをした子との記憶があるわけです。そうして、すっかり記憶を消していたと思っていたのに、意外に思い出せるものだな、と、今回思いました。奥の奥の方に記憶を押し留めてしまっていて、今の今まで、出てこれなかったのかもしれません。

今から思えば、よくこれで自殺しなかったものだと自分に驚きます。たぶん、若い頃から軽く100回から1000回は自殺しようかと毎日のように思い込んだと思いますが一度も実行には移しませんでしたので、おそらく、高次からのサポートがあったように思うのです。小学校の頃は学校へ行く足が重くて、片足づつ意識を集中してかろうじて一歩一歩足を動かしてかろうじて学校へ通っていて、登校だけで緊張でクタクタになってしまって、学校では常に緊張して、家に帰ったらようやく少しは休めて、いつも家で「あー、疲れた。疲れた。疲れた。疲れた」とずっと言っていたら母はいつも「若いのに疲れたなんて、何言ってるの」と、全く理解を示してくれませんでした。学校へ行く度に精神を削られて、毎週のように「あぁ、自殺しようかなあ」とか考えていたように思います。自殺するにも相当の覚悟と意思が必要で、当時は流されるまま、そんな自殺するほどの意思も持てずに毎日を奴隷のような精神で暮らしていたように思います。そんな状況でも、私の背後にはおそらく常時5人くらいの過去性の妻(過去のグループソウルの分霊のかつての妻と言った方が正しい)が近くにいてサポートしてくれていて、いわゆる天界にはもっといて時々入れ替わってサポートしてくれていて、その子達が精神的な支えになっていてくれて、それで自殺を思い留まっていたようにも思います。私が精神崩壊して意味不明になっていてもずっと過去妻たちは献身的にサポートしてくれていましたので、人の愛、特に女性の愛というのはとても強いものだと思います。

小学校の頃に何度か精神崩壊になり、高校では重症になったわけですが、当時から、今も時々、私はもしかしたら誰かに呪われていて、よく、頭の中に不意に「し⚪︎、⚪︎ね、⚪︎ね、し⚪︎」と言う想念がやってきて襲われて、その呪いの言葉の意識が頭を占有したまま朦朧として自分の口から呪いの言葉を発してしまうくらい意識を失ってトランスに落ちることも頻繁にありました。今でもたまにそのような悪魔のような意識がやってきますけど、気が付いたならばキリスト教のやり方「悪魔よ、退け」と念じてみたり、はたまた、単に意識を強く持つことでそのような悪魔(的な意識)を退けています。この種の意識は不意にきますので、おそらく、そのあたりに「ぷかぷか」と殺意の念が浮かんでいるように思うのです。想念というのは雲のように漂いて、この殺伐とした時代においてはそこら中に殺意の想念が浮いていて、それと接触すると、殺意の念が急に頭の中に入ってくるのです。昔は今より遥かに霊媒体質でしたから、そのような想念に接触すると対象が良くわからない単なる殺意と言葉が急に現れるわけですけど、当時はそれは自殺衝動に繋がっていて鬱に頻繁になっていたように思います。実のところ何か対象があるわけでもない、具体的でもない単なる殺意の念であっても、それに囚われると自分に対する自殺衝動に繋がってしまうわけです。今となれば、それはただ単に殺意の想念の雲と接触してしまっただけだと分かりますけど、昔は、良くわかりませんでした。その種の悪魔的想念は拒否して離れれば良いわけです。それに加えて、特に小学校の頃は同級生や他の学年の人に壮絶に睨まれて殺意の念を継続的に受けていて、それが深くオーラの各所に今だに刺さっているようにも思います。最近でも油断していると一時的に5秒くらい殺意の念と言葉に包まれて朦朧として一時的に意識を失いトランスになり、その状態で殺意の意識が占有して口から呪いの言葉を発してしまうことがありますので、最近は特に、そのようなことがないように脇を締めて生きるようにしています。短時間の5秒とかのトランスはまだあったとしても以前のように完全に意識が失われることはほとんどなくて、意識を保ったままトランスになりかけるところを堪える、と言うことが最近は多いのですがそれでも半トランスで変なことを口走らないよう、特に、誰かが近くにいる時にそのようなトランスに陥らないよう、気を使います。私がトランスに陥ると、私に親しい人は割と私が時々そうなるのを知っていますので、きちんとは状況はわからないまでもそれなりに理解してくれて、私が単に疲れているのかなくらいに思ってくれますが、そこまで親しくない人だと「私に対して呪いの言葉を発しているのかな。私が近くにいてはダメなのかな。私がそんなにいけないのかな」と、誤解されてしまうこともありますので、それほど親しくない人と接する時は気を使います。特に若い頃は、自分が何を言っているのかすら覚えていないことがよくありましたし、長い時間の無意識のトランスに落ちて体と口が勝手に動いてしまうこともよくありました。

思うに、この種の、悪魔的な想念に囚われてそのまま急に自殺してしまったり、不意に予測不可能な行動を取って自分だけでなく周囲を巻き込んでおかしな状況になる、と言うことは世間ではそれなりにあると思うのです。動機として自分のオーラに眠っている場合は対処が少しずつ可能ですが、雲のようにそこらに浮いている悪魔的な想念はなかなか避けようがなく、いつ来るかも予測が難しく、事故のようなものですので、あらかじめ知識を入れておいて、そのような悪魔的な想念に急に囚われた時は、そういうものだとして理解と対処をすべきだと思います。急に誰かが自殺衝動に陥った時、周囲の人は単純に「あの人はおかしい。自殺願望、あるいは、殺意のある人」として捉えるのではなく、きちんと状況を理解して、悪魔のような想念を祓ってあげる必要があると思うのです。本人にしても、そのような殺意のある悪魔的想念に襲われた時に「このようなことを考えるなんて、自分はなんて悪魔みたいな人間なのだ。なんて自分は醜い人間なんだ。生きている価値もない人間なんだ」と解釈すると本当にそのまま自殺したり殺人鬼になったり犯罪者になったりします。一方、正しく解釈して、「このような悪魔的な想念は私のものではない。悪魔よ、退け」とするならば精神を健康に保つことができるわけです。基本的には、疲れていればいるほどこの種の悪魔的想念が入り込みやすいので、あまり疲れないような生活を心がけています。

ちなみに、テレパスの状態で過去に関わった多くの人の本心を探ると、かなりの場面で他人から私は「⚪︎んでくれ」と思われていたことがわかります。殺気と呪いの言葉を何度も何度も投げかけられていたようです。私は割と目立つようで、それでいて、態度もあまり良くありませんでしたから、そのように思われていたのかなと思います。

この種の問題と状況を理解して対処できるようになるために長らく学ばされてきた、という面もあったのかもしれません。悪魔的想念に囚われてトランスに陥っている人をよく観察すれば視点が合っていなくて意識が一時的に遠くに行っていることがわかりますから、特に祓う、と言うことをしなくても、大抵の場合は体をゆすってあげたり、頬に少し触れてあげて意識を戻して正気に戻るきっかけをあげるだけで回復するには十分だったりします。それで回復しないのはよっぽどのことです。

細かく説明するとこういうことではありますけど、この種の問題が起きるのはオーラの防御が壊れて、精神が崩壊しているからであって、ざっくばらんに言えば「私は呪われている」ということだと思います。同性からの嫉妬、妬み、怒り、異性からのヒステリー、そのような念による呪いが私にかけられ、それによってオーラの防御が崩壊し、精神崩壊し、その結果、そこらに浮いている悪魔的想念が入り込みやすくなって影響を受けやすくなり、自殺衝動に駆られていたわけです。

「誰が言っているかでなく、言っている内容で判断すべき」とは子供の頃から思っていたわけですけど、そんな、私に色々言ってきている人の論舌は、どうも、根拠がないわけです。そのように、よくわからない人たちは自分たちの自己肯定感を高めるために私を貶めようとしていたわけで、そんなくだらない論舌に付き合うことで私は自己肯定感を著しく下げていたわけですけど、そんな人の話に付き合うのは時間の無駄だったなぁ、と今なら思うわけです。今から思えば、初心を徹底することで、「言っている内容、それだけで判断して、その現実は正しくない」と判断しても良かったと思うわけですけど、モラルがない人はネチネチとしつこく迫ってきて思考力を奪って鬱にさせていきますし、反論するといきなりキレて怒鳴りつけてきたりすぐに手が出てきてぶん殴られたりしていましたから私は発言をすることも反論することができなくなっていき、ついつい受け入れてしまっていたのです。だから、学のない頭の悪い人とは私は今でも付き合いたくないのはそのためです。自分の意見を通すために暴力を振るったり怒鳴りつけてくる人たちに若い頃は囲まれていて、田舎でしたから学校はほぼ1つしかなくて、逃げ場がありませんでした。中学までは選択肢は1つで、高校で2つ選択肢がありましたが往復3時間のところにある自称進学校に通うのは前に書きましたように遠くて移動に疲れるのでしたくないですし、そもそも、そこに通うバスで意地の悪い気持ち悪い虐めっ子といつも一緒に通うことになる可能性が高かったために積極的に避けました。田舎とか家族とか限られた人間関係ですとその狭い社会での意見が当然で正しいかのように思わされてしまうわけですけど、実のところ、かなり偏った偏見であることに上京してから気がついたわけです。そして、それは気が付いた後も、既に壊れてしまった精神は回復にかなりの時間を要しました。他人の勝手な意見に付き合わされた挙句、時間をずいぶんと無駄にしてきたわけです。我ながら、世間知らずで、いい人すぎました。世の中にはどうしようもなく頭が悪かったり捻くれて他人を貶める人がいて、そのような人は心理学の投射なんて理解していませんから自分が思ったことがそのまま現実だと思って当然の如く接してきますから、例えば私が何か言うと「お前、なんて酷いことを言うやつだ」とか私に対して逆ギレしてきて、あたかも私が悪いように言ってきますので当時は「そうかなあ」と思ってしまっていましたけど、実のところ私の方が正しいと今では思うのです。本当に完全に100%とまではいかないまでもかなりのところまでその通りなのだから仕方がなくて、仏教で言われているように「不道徳な人とは付き合ってはいけない」が正しくて、不道徳な人に何を言っても無駄で、不道徳な人に何か言ったら恨まれたり仕返しされたりあらぬ噂を立てて私が悪者扱いされたりしますので、そのように、ひねくれている人とは距離を置くべきだったのです。とにかく、認知が歪んでいるひねくれ者とは関わり合いにならない方が良いのです。田舎の小さなコミュニティではそれが難しい時もありますけど、そのように、逃げられない環境を知る、という意味においても勉強になりました。逃げられない子供は本当に辛いと思います。虐めやモラハラなどでどちらが加害者か被害者か一見すると外から見分けがつかないことがある、と一般的に言われているのも、不道徳な人は自己肯定感が高いために他者を貶めていてもそれに気が付かないのだと思います。そのように、自分がしていることすら自分で理解できていないような頭の悪い不道徳な人というのは徹底的に避けるべきなわけです。世の中には、言っていることが支離滅裂で意味不明な人が大勢いて、まともに取り合う必要のない人が大勢いるわけです。一方、本当にいい人というのは目立たずしてたくさんいて、そういう人と仲良くなれば良かったわけです。人を見る目と理解する頭が大切なわけで、要は頭が良ければ人生は幸せになれる、ということだと思います。であれば、当然、パートナーにもできるだけ頭の良い人を選ぶのが良いわけです。ただ、あまりにも差があると、逆の立場で、その、頭の良くて良い子の貴重な時間を奪ってしまうことにもなりますので、なるべく同等の人を選ぶのがお互いのためになる気が致します。であれば、頭の良いパートナーを選ぶためには、まず、自分がしっかりと勉強すべき、ということにもなるわけです。あとは、相手が自分を選んでくれるか、ですね。