テレパスで腹黒さを確認することで愛のなさを反面教師にし、本当の愛を理解する

2023-05-09 記
トピック:スピリチュアル: 回想録

合コンで、ある時に、ちょっと気になる別の子がいたのですけど、その子は一見すると礼儀正しく接してはくれたのですけど特に仲良くなることはなくて、当時はよくわからなかったのですけどここにきてテレパスで当時その子がどのような気持ちだったのか見ることができて、どうやら、あの礼儀正しい子は表情に出さずとも心の中で私を小馬鹿にして見下していたようで、当時に表情からはわからなかった、本性の気持ち悪さを今更ながら知りました。私はそのことに当時全く気づきませんでしたの、人を見る目が本当になかったのかなと思います。テレパスで見たあの子の感情はとても気持ち悪くて、波動も悪く、ぜんぜんいい子ではありませんでしたけど、当時はいい子のような気がしていて、ちょっと気になって少し好意を寄せていたりしましたが、テレパスで見るとお腹の中が真っ黒で、実は文字通り腹黒い子だったようです。今更ながらちょっとショックです。よく、慣用表現で「腹黒い」なんて言いますけど、テレパスで当人の内情を探ると本当に本当にお腹の辺りが黒くなっているのが見えますので、腹黒い、という表現は表現としてぴったりなわけです。まさに真実そのままです。文字通り、本当に腹の中が黒い人がいるのですけど、顔の表情からはなかなかわからなくて今更ながら驚きました。逆もあって、一見すると当時は清楚系ビッチのように思っていた人でも今更ながらテレパスで内情を見てみるとそうでもなくて割と普通の子がいたり、はたまた、このように、見た目は普通なのに実は腹黒い、と言うことがテレパスにはわかるわけです。それは(外部からの)印象とかいうお話ではなくて、テレパスで見るときは視点がまさに「その子」になりますので、対象の子と「自己同一視」した状態になって、その子そのものになって、本人がどう思っているのかを本人の視点で見るわけです。内側から、いわば重なって見ますので、かなり正確な状態がわかるように思います。これは、よくある「(割と物理的な)オーラの接触」とは異なっていて、時空を超えていますから、危険はないわけです。相手のことを相手の視点としてその気持ちを知ることができるのはテレパスの利点ではありますけど、時に、このように、残酷で辛い現実を知ることもあります。何も知らずに表情だけ見て心地よくなっていた昔は「知らぬが仏」だったようです。ちなみに、これは私はいつでも誰に対しても自由に見れるわけではなくて、高次から見せられている、という感覚があります。必要な場面を一つづつ見せられて理解を整理させられているようですけど、時々、このように、清楚そうに見えるのに実は残酷で腹黒い子の内面を見せられてショックを受けることもあります。これが現実というものです。当時はメンタルを壊していてかなり波動が悪くて体全体が重かったですので、当時の自分には分相応の相手だったかもしれません。とは言いましても、そこまであの子に相手にされませんでしたけど。

霊視やテレパスで見たことは本当のことかどうかはわかりませんけど、あの子は、一見すると見た目は普通でしたけど、実のところ、誰とでもすぐ寝るような子で、まさにビッチと呼ぶのが相応しい、あそこまで清楚系ビッチと呼ぶのに相応しい人はいないのではないか、と言うほど夜の生活が乱れているような子だったようです。もしかしたらあの風景は、夜のお仕事のそういう部屋で働いている子だったのかもしれません。

今から思い出すと、そういえば、合コンの途中まで私はあの子に興味を持っていたのですが、1時間くらいした時にあの子のそう言う姿がチラリチラリとヴィジョンで見えて、それで、「あれ? この子って、すぐに裸になって、汚いことして、誰とでも寝るような子なのか・・・」と思って、それに気がついて急に興味を失ったら、あの子は「あれ? どうしたのかな?」みたいな表情をしていましたけど、それは、本性に気付いてしまったので興味を失ったわけで。

当時はただ単に「すぐ寝る子」としか思わなかったわけですけど、今、再度、その風景を思い出してみると、どうもあれは、単にすぐ寝る子と言うよりは、夜の、そう言う仕事をしている人だったのかなぁ、と思うわけです。そう言う部屋で、すぐに裸になってやりまくるような感じでした。

見た目は清楚そうに振る舞っていてもオーラは隠せないですし、オーラの汚れは理由にもよりますけど、その理由が夜の仕事で色々な人から黒いオーラをもらっているからだとすれば腹黒いのも当然だと言えます。夜のお仕事で体を接触すると高確率でオーラの交換がなされますから、腹黒くもなるわけです。

実のところ魂の根源は誰でも清浄で汚れることはないわけですけど、その周囲の個別の魂には色があって、そのまた周囲である物体のオーラの中にこれらの腹黒いオーラがあるわけです。それを踏まえて、単に腹黒いという場合でも主に2種類あると思っていて、根源は誰でも清浄なのでさておき、その周辺の魂の色が暗い場合と明るい場合があるのです。そして、体に近いオーラが黒いものが混ざっている場合です。組み合わせで4パターンあるわけですけど、そのうち、腹黒いパターンは2つで、魂が暗くて腹黒いパターンと、魂が明るくて腹黒いパターンです。前者は魂の本質から言ってまだ成長過程で本質的に腹黒く、上の女の子の場合はこのパターンです。一方、魂は明るいのだけれども周囲の影響で腹黒いオーラを植え付けられるパターンがあるように思うのです。私はどちらかというと後者の意味で周囲から腹黒いオーラを植え付けられていた、いわば黒いオーラのゴミ箱にされていたように思うのです。そうして黒いオーラを私に吸い取らせて捨てた周囲の人は至極元気になって、私は黒いオーラを受け取って鬱になる、という搾取の関係性が周囲で私にモラハラしてくる人たちとの間でオーラの交換という点においてパターンがあったように思うのです。

私自身のお腹を同じテレパスで見て見ますと今でもぼちぼち灰色のような斑点が私のお腹にありますので客観的に見て自分の状態が未だにそのくらいであることがわかるわけですけど、おそらく、この私の灰色の斑点のオーラは若い頃に虐められて少しずつ蓄積したものに加え、特に大きいのは、若い時に密着した女の子からもらってしまったものがまだ少し解消されずに残っているように思います。おそらく、私のこの腹黒いオーラは生まれながらにはなかった筈で、生きているうちに関係性によって他者などからもらってしまったように思うのです。であれば、特に深い体の関係を持つのは特に気をつけた方が良いと思うわけです。おそらく、私がこの灰色の斑点のオーラをもらってしまった人の心当たりがあるとすれば、ほんの短期間しか付き合いがなかったわけで、それでも、その後、ずっとオーラが残り続けるので関係は短期間であろうとも悪影響が長く続くように思います。今の若い人はお持ち帰りなどで体の関係をすぐに結んだりしますけど、腹黒いオーラをもらったり、あるいは逆に自分の腹黒いオーラを誰かに渡すことで自分が楽になる、という、ババ抜きゲームを繰り返しているようにも思うのです。私は最近はそういう体の関係はあまりなくて、もっぱらヨガや瞑想で波動の解消に努めてきたわけですけど、そうして浄化を進めてきた自分の状態ですらまだこのくらいだとすると、本当にお腹の中のオーラまでもが清らかな人は稀なのかもしれません。そうなると、昔ながらに言われている、貞潔を守ることの意味が、違った観点で理解されます。生まれながらに綺麗なオーラを保つことは、自分が浄化するだけでなく、付き合う相手も選ぶ必要があって、それは必ずしも貞潔を守るだけではなく、深い関係を持つということは相手のオーラに自分が深く影響されるということです。

このように、テレパスで知ることのできる相手の思考や状態というものがあるわけですけど、じゃあ、理解とか言わずに最初からこれで見たらいいじゃないかというお話もあるのですが、高次の(見えない)ガイドの解説によると、そうではなく、理解することが今回の人生の課題だった、と言います。テレパスで知ることができるのはあくまでもその時点での状態で、それは、普通に目で見て物理的に近くにいて知ることのできる情報が増えたに過ぎず、その情報を正しく理解するためにはテレパスだけでは不十分で、テレパスだけでは一時的な状態を元に相手を間違って理解し、誤解に基づく判断や評価を下してしまうことがあるようです。正しく見る、という点においてテレパスは有用ですが、得た情報を元に考えるのはテレパスも普通の人も変わらないということのようです。それは理に適っています。いくらテレパスできたところで理解と判断力がなければうまく動けませんから、理解を重視した、というのは至極真っ当なことであると思います。テレパスですとついついそれに頼って判断してしまい、事前に割とトラブルは避けることができるのですが、それでは大体の場合において浅いところでの理解しか生まれませんし、テレパスの面でパスしていても理解が足りないと判断ミスをして致命的な結果になったりします。金銭的な面だけでなく、物理的に被害を受けたりすることもあります。テレパスに頼ると理解が浅いために表面上は平気そうな場面でついつい油断してしまうわけです。そのような、危険な場面が多々あって、パラレルの時間軸においてパラレルの自分が実際に被害にあって苦しんでいる姿も見えます。今回、地上の人生はほぼ終わりにしてもともといた世界に帰ることを自覚しているのですが、全てを終わらせて理解した上で心置きなく地上を離れるため、理解を深めるために数十年の間は一時的にテレパスを抜きにして理解を得るために苦労した、という面もあったように思います。

高校時代に「あだち充の漫画とか読んで」と言ってきていた少し仲良かった子がいたのですけど、思うに、私が愛というものを当時はよく知らなかったのでもっと違う接し方をしてきてほしい、と言っていたのだと思います。私からするとあまり気兼ねせず話せて仲良くて、周りから見ると「あれ? あの子のこと好きなの?」と思われていたと思いますけど実のところ私にはそこまで自覚症状はなくて、しばらく仲の良い状態が続いたわけですけど、ある日、口論して喧嘩するようなことがあって、私が話しかけても「もう! 」みたいな態度を取ってプンスカするようになってしまいました。今となっては何があの子を怒らせたのか思い出せませんけど、おそらく、今からすれば、とてもくだらないことで、怒って当然のことを言ったように思うのです。私からすると「何をそんなに不機嫌なのだろう」としばらく思っていて、修学旅行で自由行動の時に、道の真ん中で、たまたま人が1人でポツンといるその子を見つけたので私が近づいて、割と皆に見られるような状況で「一緒に回ろうよ」みたいに私が道の真ん中で言ったものだから「いや、ちょっと、それは!」みたいにその子は挙動不審になってオドオドして、拒否しているのかOKなのかいまいちわからない状況で、たぶん拒否されているのかな??? と言うよくわからない態度で、「あれ? なんだこれ。そんなに嫌われているのかな?」と、女心がよくわからない状況で、とにかくその時は混乱して、実のところ私は自分があの子を好きという自覚もあまりない状態でしたから、その気持ちをどうしていいのかわからずに、頭がぐるぐる混乱したまま、気持ちと態度だけが行き場を失ってその後に私の方こそが混乱した態度を取ってしまう1日になってしまい、あたかも、他の子に対して好きかのような態度を取ってしまって他の子を勘違いさせてしまって申し訳なかったこともありました。自分のあの子への気持ちが行き場を失ってしまって挙動不審の意味不明な状態になってしまったのだと思います。その子を遠くから見ると、これまた1日中ずっと挙動不審になっていて、あの子にしても混乱して自分の態度がよくわからない状況になっていたのかなぁ、という気も致します。お互いに挙動不審同士で、とにかく、当時は変な2人だったように思います。誰かを好きになる時は、割と大抵、好きだという自覚症状がなくて、頭が混乱して意味不明になってしまっていたように思うのです。今から思えば、まあ、私はあまり愛というものをはっきりと知らない状態だったんだなと思うわけです。当時からきちんと愛を知っていれば女性に対する接し方もかなり違っていたのかなと思います。当時、あの子のことを好きだったのか? と言われると、「うーん。よくわからない。そうだったかも」という感じです。好きか嫌いかで言えば好きの方に分類されますので、高校時代のピュアな感情からすれば「好き」に入れていいのかなと思います。どちらかというと、仲良く過ごしたい、という気持ちの方が強かったですかね。周りから見ると、どうも微笑ましい感じだったかなと思います。好きかどうかというお話と愛を知っているかどうかは別のお話で、一応は「好き」であったと判断して良いかとは思うのですけど、それに加えて、愛を知らなかったので態度と言葉が何か良くなかったのかなと思います。誰かと良い関係になるためには「好き」という感情だけでは不十分で、ベースとして愛を知っていることが必要なのかなと思います。今から思えば中学にせよ高校にせよ性格の良い子がたくさんいたように思います。割と単純で素直な子が多かったですかね。中学や高校のようにあまり世間を知らない状態ですと清楚系ビッチへ分化する以前の状態の場合もあって、最初は純朴な状態から、世間を知った後に清楚系ビッチになるかどうか、が分かれ目になる場合もある気が致します。田舎で住んでいてそもそもそのような環境がなくそのまま過ごす場合もあれば、素養があって上京した時に清楚系ビッチになる(いわゆる、デビューする)人もぼちぼちいたように思うのです。あるいは、上京しても全く変わらない人も多かったように思います。それは素質によるわけです。

今から思えば中学や高校時代の同年代は半分以上はいい子でしたけど私が好きになるのは「割と変な子」が多くて、周囲から「あなた、変な子ばかり好きになるね」とよく言われていました。特に、仲の良い女の子(特に好きとかではない)によくそんなことを言われていました。それより、普通に親しかった普通の子が実は普通にいい子で、そういう、普通にいい子をいい子だと見る目が当時からあれば良かったと今では思いますし、そういう普通にいい子を当時に好きになれれば良かったと今更ながら思います。このあたりも、当時は人を見る目がなかったと言いますか、要は愛をあまり知らなくて、ちょっと変わった子にばかり惹かれていました。まあ、傍目からみれば、ちょっと面白い青春とも言えるかもしれませんけど、当時はそこまで楽しい時代とは思っていなくて辛い時期ではあったのですけど、時間を経て思い返してみれば意外と当時の印象を美化している自分がいて、辛いことは忘れてしまって、当時楽しかったことや甘い思い出ばかりが心に残っていて、当時はメンタルを壊していた筈なのに、そのような辛い思いは自分の中で理解されて解消し、良い思い出ばかりが残っているように思います。以前は、このような心境にはなれませんでした。今は当時の状況を少なからず理解できるようになり、何が大切だったのかが見えてきたように思うのです。そういえば、高校時代の同級生の大体の女の子は良い子だった一方で、ごく一部の女子が私のことを小馬鹿にしつつも私に好意を持たれていると思い込んでいたようで(そんな気が私はしていて)、私はそれについて特に言い返したりせずにスルーしていましたけど、私は、男(私)を小馬鹿にするような女は基本的に恋愛対象ではないですし、それでも何を思ったのか何人かの女子は私がその子に好意があって答えているかのような態度を時々取っている気がしたのです。当時は女性の心理があまり理解できなくて、そういうイジるそぶりをたまに少しされるのは可愛く思う時もありましたけど、継続的にやられたらうざったいだけでした。子供が好きな子を虐めるのと同じ心理なのかと思いつつも、基本的には煩わしく思っていました。今から思えば、それもまた青春の時代の良い思い出の1つなわけですけど、今から思えば、好きになるべきはそのような少し変わった子の方ではなく、普通の良い子の方を好きになるべきだったように思うのです。

当時の私の愛は2つあって、1つは見た目や表面上の態度を見た時に好きだと思い込むことでしたがこれは本当の愛ではなくて、一方、時折現れていた本当の愛はまだ当時は限定されていて、それは数少ない特定の異性に対する愛で、勇気を持って飛び込むことで開くような恋で、割と制限された特定の相手に対する愛したが、今は、瞑想において(割と)普遍的な愛を開いて愛を知った、愛を理解した、という違いがあります。それは実のところ同じ愛なわけです。全く別物のように聞こえるかもしれませんが、実のところ、同じものであることがこうして理解できたわけです。一時的に昔のことがフラッシュバックで追体験させられて、もはや忘れていた数々のことを今更ながら思い出すことで今となってはどうしようもない失恋のような心理状況を再現させられていたわけですけど、それは割と一時的なトリガーのようなもので、そのことで、普遍的な愛とは何かを理解するきっかけになったかと思います。数十年前のことを思い出したところで、もはや、どうしようもないのですけど、それでも、理解のためには役立ったわけです。その結果、おそらくかつては知っていた、そして、しばらく忘れていたであろう普遍的な愛というものを思い出して、おそらくそれは小学校や中学校の時の心理状態と同じだったかと思うのですけど、そうなると、私は最近は割といつも恋をしているような心理状況になっていて、視線で誰かを勘違いさせないように気をつける必要も出ています。とは言いましても年も年ですからそうそう勘違いされることはないので若い時ほど心配は不要なのですが。若い頃、特に小学校や中学校の頃は視線でよく同級生や近しい歳の子を勘違いさせていて申し訳なく思ったことも多々ありました。私が何気ない視線で自分が自分に愛していて微笑んでいると、相手は「私を見つめて微笑んでくれているから、きっと私のことが好きなんだ」と勘違いさせてしまって、ふと気がつくと何やら視線が集まっている、しかし私には自覚がない、ということが多々ありました。さすがに今はいい歳ですのでそういうことはないですけど、視線を勘違いさせないよう気をつけたりします。そのベースになっているのが、普遍的な恋・普遍的な愛なのか、あるいは、特定の相手に対する愛・恋なのか、と言う違いなわけです。そういう違いがありますので、以前は恋を「する」(愛の状態になる)、今は愛を知る、愛を理解する、という違いがあります。行為なのか、状態なのか、と言う違いがあるわけです。同じ愛ではありますが、一時的なものなのか割と普遍的なものなのかの違いがあるわけです。この前段階として「至福」だとか「満ちている」と言う状態、瞑想の階梯があったわけですけど、瞑想は普遍的な愛を開きますので良いとは思いますが一般の人は瞑想なんてそれほどしませんし瞑想はなかなか難しさもありますから普通に(ハートで)恋に落ちて誠実な恋愛をするだけで愛を知るのは割と十分なのかもしれません。これは肉体的な愛ではなくて(それがあっても良いですが)ハートでの愛ですので年齢には関係なくて、歳を取って恋をしても良いと思います。私の場合、小学校や中学校の時は割と普遍的な愛の状態に生きていて特定の人に対する恋はほとんどなかったように思います。一方、高校時代と大学時代はメンタルをやられていて愛の状態から落ちることが多くなっていましたから、その状態ですと、一時的に誰かに恋をするということがあったかと思います。ですから、恋を「する」という意味では思春期なわけですけど、実のところ愛の状態で生きるのは小学校や中学校の時代の方ができていたと思うのです。そしてその状態を思い出して理解して、普遍的な愛の状態にようやく最近になって戻ってきたと思うのです。普遍的な愛の状態で生きていると恋を「する」というのはあまりなくて、受け入れる方が多くなるように思います。この状態では、自分が相手を好きかどうかもある程度は重要ですけど、ある程度OKなら受け入れるだけでも割と良いように思うのです。そうでないと、恋を「する」なんてのを待っていたり選択していたらずっと独り身だったりということもあるでしょうし。芸能人で言うと石田ゆり子さんなんてそんな感じで普遍的な愛を持っていらっしゃると思うのですよね。ですから、確か本人は「恋とかよくわからない」とおっしゃっていますが、普遍的な愛で常に生きていると恋を「する」とか言うのはよくわからない、というお話だと思います。以前にも似たような状態になっていたような気がしたことがありますけど、愛の深さと、その理解の程度、というところには大きく違いがあるかと思います。今後もまた更に愛の理解が深まる可能性もありますが、一旦は、小学校や中学校の頃の状態にまで戻ってきたことで目処がついたと言えると思います。今更といえばそうですけど、愛を知れて(理解できて)良かったと思います。