実のところ、母方の祖母は「いい人」だとずっと思っていました。その祖母と同居していた叔父も良い人だと思っていて、叔父の方は割とわかりやすくて上京後に距離を置くことになったのですけど、祖母の実態はなかなか見抜けずにいました。この祖母は太平洋戦争の時にトラック諸島で看護婦をしていて、初期に行っていたので戦況が悪化する前に任務終了で帰ってきたために生き延びた人ですけど帰る直前は治療どころではなくて死体の数を数えたりする方が多かったそうです。そういう状況でも楽しいことはあったようで、とても大きな葉っぱに水滴がついていて、揺らすと水滴が落ちてきたり、みたいな遊びをして最初の頃は皆んな笑って過ごしていたそうです。子供の頃はこの発言をそのまま受け止めていて、単純に、楽しいことがあった、と、理解していたわけですけど、思うに、辛すぎる状況では人は笑顔になるわけです。辛いが故の笑顔なわけです。この基本を押さえておくと、笑顔だからと言って喜んでいるかと言うとそうでもない場合も多々ある、と言うことが理解できるわけです。そして、そのような経験をした人は、自分を隠すため、あるいは、習慣のように、自分の心を隠す笑顔をするようになるように思うのです。今から思えば、祖母のしていた笑顔はいつもこれが基本にあったのではないかと思うのです。当時は単純に祖母はいつもにこやかにしていたと思っていたのですけど、実のところその家は自営業で外面を良くしないといけないと言うこともあり、笑顔が板についていたのではないかと思うのです。それだけでなく、過去の辛い出来事が過ぎ去って平穏な日々を過ごすことで笑顔になっていたと思うのです。この種の、複数が入り混じった状況における笑顔というのは、複数の面が含まれているのです。そして、時が経つにつれてこの祖母は色々とズルいところがあることが判明して、私の母に対しても色々と小馬鹿にしたり上手いこと手伝わせて、陰で悪口を言っていたりもしたようです。ですから、外面は良いけれども狡い人、というのが本性だったようです。当時はここまで見抜けませんでした。
これを踏まえると、T大の例の子の横にいた2人の女の子のこともよくわかります。当時はこの2人は単純に作り笑顔をしていて、本性を見せていない、よくわからない子、何を考えているのかを見せずに、当たり障りのない回答をしている、心を開いていない子だと思っていました。初対面だとそんなものなのでしょうけど、当時は、あまりにも距離のある会話で、社交辞令が主で、表づらは良いですけど、よくわからないな、と思っていました。今から思えば、初対面だからというよりも、これは私の父方の祖母と同じパターンなわけです。心はそこまで通じ合うことなく、距離が常にあって、実のところ避けられていて、でも、多少の可愛さ、それは下に見るという意味の可愛さですけど、自分に尽くしてくれそうな、自分を慕ってくれる人がいると喜ぶ、というタイプの女性だったように思うのです。作り笑顔を良くする子だった反面、本性が見えにくく、猫を被っているといえばそういうことで、目の前にいる男(私)を好きかというと(当然ながら)そうでもなく、でも、笑顔は絶やさないわけです。
母方の祖母にせよ、T大生の目的の子の横にいた2人せよ、この種の女性のことは長らくずっと「いい子、いい女性」と単純に認識してきました。ですが、今から思えば、これらの女性は、道徳的に信頼できる子、普通の子、パートナーとしてアリな子、結婚相手としてアリな子、でも、ハートの愛には目覚めていない、ということなのかなと思います。普通にパートナーになるには全然アリで、結婚したらその真面目な性格と誠実な態度で、不満はそれほどないと思います。ただ、ハートの愛にはそこまで目覚めていなくて、もしかしたら関係を続けるうちに目覚めることもあるかもしれませんけど、この時点では目覚めていないわけです。それでもパートナーとしては全然ありで、その理由はというと、誠実だからです。最高なのは誠実かつハートに目覚めている人なわけですけどそういう人は少なくて、それでも、誠実であるのならばパートナーとして十分だと思うわけです。この2人はどちらも外面が良くて、でも、調子に乗ると本性が見えて、やんちゃな姿が所々に見え隠れしました。本人は隠しているつもりだったりするのでしょうけど、割とわかりやすいです。そういう、わかりやすいところからも、2人が良い子だとわかるわけで、外面を良く見せようとはしているけど、本性はもっとやんちゃで、それが悪い意味ではなくて、やんちゃな良い子が頑張って外面を良く見せようとしているのが微笑ましいわけです。本人はきちんとしているつもりでも、ここは当時からそう思っていたので、割とわかりやすいわけです。当時は、何か隠し事のある子かなぁ、とか勘ぐってもみたわけですけど実のところおそらくそこまで具体的な意図で作り笑顔で隠そうとしているわけでもなく、割と単純で、当時は勘ぐりすぎたかなぁ、と思ったりもするわけです。この種の笑顔が本当の究極の意味で誠実かというとそうでもないわけですけど、十分に誠実なわけです。その内実はというと、基本的な性格も良くて、本性はやんちゃだとしても男の前で女が誠実そうに淑やかに振る舞う努力をするのは女性として普通だと思いますからそれはそれで良くて、ハートの愛に目覚めていないとしても、割とそれで十分のようにも思うのです。当時は、本性を隠している子、と思っていたりもしたわけですけど、そこは、「そりゃそうだ」という程度のお話で、そこまで気にする必要はなかったわけです。ハートの愛をパートナーに求めるのは敷居が高くて、ある程度まで誠実なら、例えやんちゃな本性があったとしても、別に、そこまで気にすることはないように今なら思うのです。
母方の祖母は狡い人だったのに、そういう人はパートナーとしてありなのかどうか、という点についてですけど、それは程度問題だと思うのです。この世界に完全に聖人な人はいませんし、そもそもハートの愛に目覚めた人は稀ですから、そこは妥協するところとして、この種の人は狡いところが多少はあって、たとえば専業主婦狙いだったりとか、はたまた、自分の利益に寄与するように誘導するだとか、さまざまなことがあるでしょうけど、このクラスの人であれば、そんなものだろうと思うのです。それに、それを毛嫌いしてしまうと辛いですけど、そんなものだ、と思えば、そこまで苦にならないものです。ただしここにはマイ・ルールがあって、パートナーは、お互いの間では誠実でいる必要があって、外の人に対しては多少の狡さがあっても目を瞑りますけど、パートナーが自身に対して狡いことをしてきたら(多少は見て見ぬふりをしますが)、あまりにも図々しい場合はパートナーとの関係を続けるのは難しいのかなと思います。自身が許容できる範囲で、多少の誠実を持つ人と暮らすのが良いのではないでしょうか、とも思うわけです。