人は、悲しすぎる時に笑顔になる

2023-05-08 記
トピック:スピリチュアル: 回想録

お目当ての子も含めて複数人で食事をしている時にとても辛くなって、気になる子には何故か自分が素っ気ない態度を取ってしまって誤解されて、自分の態度が原因であるのにも関わらずそっぽを向かれて悲しくなって、それでいて、他の子にも自分というものがそこまで相手にされずに表面上の作り笑顔をされているのと同時に偏差値が下に見られて社交辞令の笑顔でスルーされている状況が情けなくて耐えきれなくて、どうしようもなくて最初は精神衰弱になるわけですけど、一定の閾値を超えて耐えられなくなると、笑顔になるのです。笑顔でいなければ精神が崩壊してしまうほど感情は一杯一杯で、その時、私の心はというと「あぁ、もう、耐えきれないけど・・・。まだ2時間近く時間はあって、せっかく来たこの子達と何も喋らないのも何だし、つまらない思いをさせて返してしまうのは申し訳ない。もう、せめてもの、おもてなしをしよう。そして、帰ろう」と思ったように思います。そして、精神崩壊寸前のところで笑顔になって、にこやかに、「ご趣味は何ですか?」みたいに話を戻して、その子達は困惑して顔が少し強張りつつも、なんとか、少しずつ打ち解けてくれたように思います。それでも、私の精神がそんな状況でしたから恋愛なんて無理かなとも思っていたわけですけど、実のところ、そのような精神衰弱の状態であれば、相手方から押せば私は簡単に落ちた状態だったように思うのです。とは言いましても女性の方から積極的になることなんて少ないですからその時は何もなかったですけど、逆の立場で、打ちひしがれている女性がいたら、男性が優しくしてあげれば良い子も簡単に落ちるかのような(逆の立場での)精神状態だったように思います。その私の姿を見て本命の子は困惑していましたけど、もしかしたら、悲しくて笑顔になっている状況を、ただ単純に、他の子たちに対して笑顔になっているかのように解釈されてしまったかもしれませんね。そう言うことではないのですけど、笑顔というものは解釈が難しいように思います。自分ですら自分の笑顔の理由を当時はよく理解できないでいましたし、ましてや、周囲から見て笑顔の理由を読み取るのはなかなか難しいように思うのです。この時の笑顔の特徴を言葉で表すなら「ガチャピンの目」になっているところでしょうか。

今から思えば、この「笑顔」は、私が母や親戚や同級生から執拗にイジられて嘲笑されて非常に辛くて精神が崩壊しかけていた時に自然に「笑顔」が出ていた時と同じだったように思うのです。この時、私は、自分が受け入れてもらえない悲しさと辛さ、誤解されてしまってそのまま関係性の修復が不可能だと悟ったことによる悲しさで精神が崩壊しかけ、そして「笑顔」を作っていたように思うのです。その視線はあの時に一緒だった女の子たちに一応は向けられていましたけど、それは決して、恋愛によって笑顔になっていたわけではなく、本命の子に理解されていなくて誤解されていたが故の悲しさで笑顔になっていたのであって、実のところ、こんな回りくどいことせずに、本命ならばズバリと言葉で言えば良かったと今なら思うわけですけど、当時は自己肯定感も低かったですし、そもそも、自分の気持ちすら自分でうまく解釈できなくて、ですから、自分が本当に誰が好きなのか、自覚すらしていなかったのです。結局、笑顔でいたり、はたまた、感情を抑えてクールにしていられることができずに最後に悲しい感情が込み上げてきて抑えきれずに爆発してしまって変な姿を見せてしまい、そんなんですから一緒だった子たちには不思議がられただけで、もちろん、そのまま何もなかったのですけど、今から思えば、こういうことだったのかなと思うわけです。自分の感情と気持ちすら理解できていない人に恋愛は難しいのかなと思います。まあ、そのように難しいからこそ恋愛できる機会は貴重だということも言えるかもしれませんが。

きっと同じように、私以外にも、虐められている人が「喜んで」いるかのように見える場面というのはあると思うのです。このように、精神が崩壊しかけていて神経衰弱になっている時に感情が耐えきれなくなって、感情が壊れてしまって「笑顔」になっている時があるように思うのです。人の気持ちというものがよくわからない人は他人の笑顔を見て単に「喜んでいる」と解釈し、例えば、人の気持ちがわからないイジメっ子などは「虐められている人は、喜んでいた」とか釈明したり、はたまた、いじめっ子がいじめられっ子に対して「俺が好きなのだろ? お前ホモだろ?」とか勘違いの釈明をしますけど、実のところ、精神が崩壊していると「笑顔」になるように思うのです。そうでもして感情のバランスを取らなければそのまま精神が本当に崩壊して気が狂ってしまうほどに辛い思いをしているからこそ、自分の精神を守るようにして「笑顔」になるように思うのです。それを見て、いじめっ子は「喜んでいる」と解釈したり、はたまた、勘違いにも程があるのですが「自分が好きなのだろ? ホモみたいに笑って気持ち悪い奴だ」みたいに思ってイジリがエスカレートするわけです。人の気持ちを理解できないような獣のような人間はこの世に大勢いるもので、この種の「悲しい笑顔」を全くと言って良いほど理解できない人も、世間には大勢いるわけです。

一般的にはそのようなことがあって、類似の状況として、特に虐められていたというわけではないにせよ、とても自分が情けないと思うような状況に置かれると同じように非常に悲しくなって、ついつい「笑顔」になってしまう、という点は同じなのかなと思うのです。

ちなみに、当時、会に誘ってくれた男の同期から「私が(本命の方ではなく)別の方の二人を好きなのか」と勘違いされたのですが、私がこうして悲しい笑顔をしていたからでした。悲しい笑顔でも、傍目には「好き」の笑顔に見えたりするようです。

似たようなお話で、マザコンは一般的には母ベッタリの気持ち悪い男として理解されていまけど、おそらくそれは同じ文脈で理解できて、母との関係の間に(母からの)虐めがあることが基本にあって、母親ですから情がありつつも虐められているのでかなりの部分で子供としてはかなり極限まで悲しいから表面上は笑顔でいて仲が良いように見えるのかなと思うわけです。そのいびつな愛情が故にマザコンは気持ち悪く周囲から見えるのではないかと思うのです。子供は母から虐待に近い虐めを受ける一方で、母の思い通りになってさえいれば一応の愛情は受けることができますので愛情も一応はあって、それでいて、子供からしたら母親に見捨てられそうになっていて悲しくて精神が崩壊しそうになりつつも、その悲しい感情が自分の精神を崩壊させてしまわないよう「悲しい笑顔」をしていて、でも、傍目にはそれは悲しい笑顔のようには見えなくて単純に「好き」の笑顔に見えて、それを見た母親はその笑顔に喜んで、子供の方からしても、母親が自分のことを見てくれている、母親が自分を見捨てないでいてくれることに対して歪んだ喜びを感じるというような状況、それがマザコンのようにも思うのです。マザコンは世間で言われているように「母のことが好き」な状態というよりは精神が壊れている病気の状態のように思うのです(あくまでも個人的な意見です)。

また、マザコン状態で母から精神が縛られている場合には、「興味を持っている女性に視線が定期的に向いてそれっぽい態度を取るが、母からの許可がないので行動できない。母からの反応が怖くて母に話すことができない」という異常な状態になります。一般的に言われているように、マザコン男は最低で、マザコン男の相手はしない方が良いわけです。マザコン男と付き合おうとしても時間がかかったり結局誘われなかったり、母の束縛を解くのに時間がかかったり、はたまた、母に変わって彼女から束縛されたいという歪んだ欲望を叶えようとしてきますから女性も苦労しますし、結局、そんな恋は上手くいかないのです。マザコンは精神の病なのですから、まず病気を治療してからでないと恋愛は難しいと思います。

おそらくこれは必ずしも母親と男の子供の間で起こるわけではなくて、母親と女の子との間でも似たような状況は起こるように思います。母親と女の子との間の依存関係も意外にマザコンと似ているのではないかと今なら思うのですけど、私は男ですのでこの女の子のパターンに関してはあくまでも推測になります。男にせよ、女にせよ、親の束縛を受けている子供は自分のやりたいことができず、良い子の場合は親に合わせてマザコンになるか親と一緒にいる依存性の女の子になったり、あるいは、子供が親や人生から逃げて引きこもりになることもあるように思います。その時、ある程度の愛情を最初から知っている人なら「悲しい笑顔」になるように思うのです。愛情を知らない子供の場合はそのような「悲しい笑顔」にならず、ただ単に引きこもったり怒り狂ったり暴力を振るうように思うのです。愛情を知らなければ学校においても「悲しい笑顔」なんていう周囲から理解するのが難しい状態にならず、ただ単純にわかりやすく束縛を離れるために暴力を振るったりするように思います。子供にもともと暴力の素養がある場合には「悲しい笑顔」にあまりならないように思うのです。子供がおかしくなるのは、おそらくは、親の虐めが最初にあるように思うのですが、親に虐められたとしても子供に暴力の素養がなければ大人しくして「悲しい笑顔」をしますし、素養があれば親から虐められたときに暴力で仕返しをすることもあるでしょうが、そもそも、親が優しくても子供に暴力の素養があれば暴力を振るうようになるかもしれません。親だけが酷いのか、それとも、親も子供も酷いのか、というパターンで複数に分けることができるように思います。とは言いつつも、子供が時折キレたとしても、酷い親の環境にいたらある程度子供がキレるのは仕方がない面もあるように思います。昨今では子供が暴力を振るったらすぐに隔離されて施設に入れられると言いますけど、親が原因のことも多々あるのに子供だけ隔離させるなど、なかなか可哀想に思います。他の子供への悪影響を避けるためには隔離も理解できなくはないですけど、施設に入れられて人生終了に近い状況になるのは救いがありません。

そして、このような束縛を離れるために反抗期で反抗が可能であればその時期に反抗して子供は自由になりますが、反抗期になるべき時期に両親に強く押さえつけられて精神崩壊してしまうとその後に上記のようにマザコンになって「悲しい笑顔」をするようになり、自由意志を失うように思うのです。母依存の娘になる場合もおそらく同じですかね。その状態で恋愛など不可能とも言えて、恋愛するのに母の意見を聞いたりデートに母が口を出したり付いてきたり、母が良いと言った相手なら付き合うなんていう気持ち悪い状況はこのような母の束縛と精神の病が原因であるように思えるのです。世間で言われているようにマザコン男とか母に依存している女には関わらない方が良いと思うのです。母が相手を気に入れば子供は結婚できますが、気に入らないと無理なわけです。

他には、私の身近な例で言いますと、父方の祖母とその娘(私から見ると従兄弟のおばさん)の間柄がおそらくそれで、父方の祖母と祖父がその娘をおかしいくらい溺愛していて祖父と祖母はお金をその娘にばかり使い込んでいて私の家族の方からは搾取される一方でした。

そのように、これを基本形として捉えると各種の不思議な状況もよく理解できるわけです。

今から思えば、どうして私の家族が父方の祖母と祖父からそこまで可愛がられないのかがよくわかります。基本的に、祖母にせよ祖父にせよ父にせよ、割と同じパターンで理解できるのです。表面上は「不道徳な人」として今まで理解してきて「不道徳な人とは付き合ってはいけない」という文脈で父方の祖父と祖母を今まで理解してきたわけですけど、それよりも、今回の文脈に沿って、祖父と祖母はその娘(私から見ると叔母)を束縛してコントロールできているから可愛いのです。父は一見すると自由人でしたがそれは自分が自由という意味で、父はその両親(私から見ると祖父と祖母)からは自由でいましたから、そうであればもちろん、コントロールできないわけですから祖父と祖母からしたら父は可愛くないわけです。それは当然であると言えます。父は自分は自由人であるのにも関わらず自分の子供、それは私に対しては束縛をしてきましたから、これまた同じ文脈で理解できて、父は束縛している限りにおいて子供が可愛いのです。父にせよ母にせよ、祖父にせよ祖母にせよ、同じ文脈、「束縛できている限りにおいては可愛い」という法則が成り立つわけです。この理解はとてもスッキリしますし、ただ単に「不道徳な人とは付き合ってはいけない」という理解よりも深い理解なわけです。ですから、1世代ごとあるいは兄妹など割と交互にそれは現れて、父と祖父・祖母の間が疎遠ならば父と子供(私)の間が束縛の関係、というように、束縛される関係、あるいは、離れる関係、というように「束縛できるから可愛い」と「束縛できないから可愛くない」が交互に現れるように思うのです。私の場合、最初は父から多少は可愛がられてはいたと思いますが、私が父からの束縛から離れたら急にそっけなくなって、実家に帰ってもあまり話さなくなりました。まあ、束縛の愛なんてそんなものだと思います。

母の束縛というのは、直接的に虐めたり指示するだけではなく、子が母の望まない行動を取ったり取ろうとするとヒステリーになって喚き散らし、しいては急にそっけない態度を取り始めて興味を失い、「もう勝手にしろ」と言って不貞腐れ、返事もしないようになり、それでいて母は鬱のようになって悶々として子に対する怒りと憎しみを募らせて呪いにまで発展しそうになります。その呪いが積もり積もってやがては自分に降り注ぐことを感じ取った子は恐ろしくなって、その呪いに屈するが如く、「私が悪かった」と観念し、母の言う通りにする、あるいは、なるべく努力するように改心すると母は多少機嫌を良くし、「ほらみろ、母が正しいでしょ」と言うような勘違い発言で自身の決断と行動を肯定するのです。その後も母は鬱とイラつきを繰り返して子供を悩ませます。母に怒られるだけならともかく呪われてはたまらないと、仕方なく子供は母に従い、やがて、思考力を失ってゆき、そして「(母にとって)良い子」が出来上がるわけです。それがマザコン男だったり母べったり女だったりするわけです。これは母の呪いでもありますが、病気なのはむしろ母なわけです。しかし一般的には子がおかしいと見られ、子は悩みますが、子を呪うような母など放っておけば良いのです。あるいは、大学卒業するまで授業料だけ出してもらってあとはスルーするくらいでもいいと思うのです。こういうことを表立って言うと「親のことをそんなふうに言うなんて、なんて酷い子供なんだ」と思われるかもしれないですけど、明らかにこの場合は親の方が悪いのです。私も長年、道徳的風習と同調圧力によりこのような声を出せずにいました。私が悪いものかとずっと思い込まされてきましたけど、どう考えても私は悪くはないのです。子を呪って行動を制限して鬱になったりするような親など最低限の社交辞令の付き合いで十分だと思います。