今思うのが、愛を知る前段階として自己肯定感があって、少なくとも自己肯定感があれば一応の恋愛はできるように思うのです。その自己肯定感は仮初のものかもしれませんし物理的あるいは幻想かもしれませんけど、少なくとも自己肯定感があれば誰かと恋愛することは一応は可能なわけです。思えば、父や兄、そして一部の親戚は自己肯定感を高めるために私を執拗にネチネチと口で虐げて私がおかしくて自身が正しいかのように(大した根拠もなく)自己暗示を繰り返していたのではないかと思うのです。そのような仮初めの自己暗示にであっても恋愛はできると思うのですが、正しい愛、少なくとも情愛がなければ恋愛は長続きしないと思うのです。自己肯定感がない場合、誰かが自分を愛してくれていても「本当かな」と思ってしまって、やがてしばらくして相手の気持ちが離れかけると「あ、やっぱり自分を愛してはくれないんだ」と、自己肯定感の低さを自分で証明しようとしてしまうように思います。このパターンにおそらく私もハマっていて、しかも、思えば、何人かの女の子も今から思えばこのパターンにハマっていて私の気持ちを受け入れることをしなかったように思うのです。高校時代に「あだち充」を私に勧めてきた同級生の女の子は、私が仲良くしたいと思っていてたとえば修学旅行の自由行動で一緒に行こうと誘っても何か不思議なよくわからない発言と行動をして、拒否するでもなく受け入れるでもない、なんだか腑に落ちない行動を取ったのも、実は、このパターンだったのではないかと思うのです。
最初からこのパターンがわかっていれば、自己肯定感を高める発言をしてあげればその後もっと仲良くなったようにも思いますけど、当時は、あの子の行動を理解できませんでした。はたまた、自己肯定感が高いと勝手に思っていたT大生のあの子も実のところ恋愛に関してはそこまで自己肯定感が高くなかったのではないか、と今更ながら思うのです。当時は、T大生なのだから自己肯定感100%で私なんて相手にしてくれないのかな、とか思っていましたけど今思い返せばそうではなかったと思うのが妥当で、実のところ、お互いに自己肯定感が低くてあのT大生の子にしても「あ、やっぱり私なんて相手にしてくれないんだね」と、それぞれ同じように勘違いして現実を見ていなくて頭の中の想像で相手を思っていてすれ違いをしていたように思うのです。あの子は、横にいる子と私が普通に喋っているのをチラッと横目でまん丸の目で見て(心の中で)「あぁ、私なんて相手にしてくれなくて、やっぱり、この子のようないい子が好きなのね。私なんて愛してくれないよね」みたいに思ったのが表情でなんとなく読み取れた気がしたのですけど、私はというとそんな風に誤解されるのが意外で「え? どういうこと?」と思いつつ、「横の子とは普通に話しているだけで、気になるのは貴方です。誤解されたくない。」と思いつつも、頭の中では「おかしいな。別に好きでない筈なのに」と混乱していて、どうしたら良いのか当時はわからず困惑かつちょっとショックで傷付いて、世間でよく言われている「あまり興味のない人に好かれて、興味ある人には好かれない」とはこのことか、と思ったり、そもそも自己矛盾していて自分のことがよくわからなかったのでした。
お互いに自己肯定感を持っているか、あるいは、どちらかがハートの愛をきちんと知っていたらこんなすれ違いもなかったのにと思います。今から思えば、あの種のよくわからない行動をとる子は自己肯定感が何某か(特定分野だけにしろ)低い部分があるので、会話でその特定の分野を特定した上で、きちんと言葉で「そんなことないよ。素晴らしいよ。素敵ですよ」と肯定してあげると普通の関係性にせよ恋愛にせようまくいくと思うのです。思えば、テクニックの面で清楚系ビッチはこの辺りがうまくて口癖のように男を褒めているわけですけど、テクニックとしてではなく、きちんと分野を特定した上で、本心でそう思うことができて、思うだけでなく、きちんと言葉で表現できるのであれば自己肯定感の低さの罠を切り抜けて恋愛もうまくいくように思うのです。今更ながらではありますが、このようなことも気付くことができました。
この、自己肯定感とハートの愛との関係ですが、ハートの愛を知ることができれば理由なしに恒常的に自己肯定の状態になりますから、わざわざ自己肯定の理由を探す必要もなくなります。一方、それ以前の状態ですと自己肯定感は何某かに依存したものになり、何に依存するかは人それぞれですけど美貌だったりイケメン顔だったり若さだったり学歴だったり職歴だったり、はたまた、自分に彼女がいることだったり、自分が結婚していることだったりするわけです。そのような、恒常的ではない前提条件付きの自己肯定がハート以前の状態であって、それが健全な努力による自己肯定のこともあれば健全でないこともあり、たとえば私が父や兄や親戚から言われもない罵倒と中傷をされていたように、本人が何某かで自己肯定感を高めるために他者を貶める、ということすら起こるわけです。結果、その、他人を貶めていた本人は、他人を貶めた挙句に自己肯定感を高めて恋愛が(一時的に)上手くいく、という歪んだ状態になることがあって、その状態では前提条件がなくなると自己肯定感が下がってしまいますから、自己肯定感を高めるために何某かの行為や対策が必要で、その対策が健全なものであれば結婚生活は上手く続くかもしれませんが、たとえば自己肯定感の獲得のために夫婦間のモラハラなどが発生しますと容易に夫婦関係が破綻したりするわけです。一方、少なくとも片方が情愛、できればハートの愛を知る段階に至っていればこのような前提条件に頼らない自己肯定の状態に次第になりますから、そうなれば、問題はあまり起きないわけです。これは程度問題になりますが、愛を知らなければ知らないほどトラブルが増える、ということは言えるかと思います。
若い頃の様々な感情を追体験することにより新たな理解へと至ったわけですが、意外にも当時の自分の状況は恵まれていて愛に満ちたものでもあったように思えるのです。同級生の女の子には性格の良い子が沢山いて、実のところ、その誰を選んでも実は良くて幸せになれていたように思うのです。でも当時はそうは思っていなくて、ちょっと変わった子にばかり惹かれていてOKなのかNGなのかよくわからない態度を取られてすれ違いのまま上手くいかなかったのでした。
こうして若い頃の記憶が蘇ってきたわけですけど、ほとんどはすっかり忘れていたことばかりでした。高校時代の同級生にしても大学時代の出会いにしても、ここ数十年、ほとんど思い出すことすらなかったわけです。2023年GWの前後で若い頃の記憶と感情が勝手に湧き上がってきたわけですが、そのように、思い出すことのできた過去の記憶と感情がある一方で、思い出そうと思っても思い出せない記憶も多々あります。