愛とパートナーの種類の組み合わせパターン

2023-05-10 記
トピック:スピリチュアル: 回想録

パートナーとの繋がりは、幾つかのパターンに分けられると思います。

1.自分が情愛しか知らない、ハートの愛がよくわからない場合。
 1−1.誰かが自分をハートで愛してくれている(ような気がする)場合、誰かが熱心に自分にアプローチしてくれている場合、それを受け入れる。この場合、パートナーが自分を一方的に愛しているかのような関係になる。自分はそこまでの愛を知らないわけなので、自分をハートで愛してくれているパートナーに感謝する。この時、やってしまいがちなのが、自分がその子を好きではないので断ってしまうこと。相思相愛なんてそうはないので、実際、悪い人でなければ受け入れるのを基本にすべきだと思います。常識のある人がハートで自分を愛してくれていて、それでいて常識とモラルがあるのであれば、そんないい人はなかなかいませんので、その相手に感謝すべきだと思います。(大勢、ピュアに私のことを思ってくれていた人をもっと受け入れるべきだったかもしれません)
 1−2.自分が誰かを情愛で愛したのならば相手にアタックしても良い。あとは相手次第。相手がハートの愛を知っていて受け入れてくれれば関係はうまくいきます。一方、相手が情愛しか知らず、ハートの愛を知らない場合はトラブル多発の傾向があるように思います。アタックする前に、相手に常識とモラルがあるかどうかを見極めることが重要のように思います。(これで失敗した事も多々あったように思います)
 1−3.相手にハートの愛を(自分や相手がハートの愛を知らないのにも関わらず)求める場合、なかなか厳しい。自分がハートの愛を知らないのに相手にそのハートの愛を求めるというのは分不相応というものですが、意外にこのパターンが多いように思います。それで、十分に愛してくれないと不満になったりします。贅沢なのですよね。(例えば、高校時代の、あだち充のような恋愛に憧れていた同級生の女の子はこのパターンだったかもしれません)
 1−4.相手がハートの愛を知らず、情愛で自分を愛してくれている場合。分相応。相手にモラルと常識があるのであれば受け入れて良いパターンだと思います。

2.自分がハートの愛を知っている場合。(恒常的、あるいは、一時的、特定の相手に限定される場合も含む)
 2−1.誰かが自分をハートで愛して熱心にアプローチしてくれた場合は上記とほぼ同じ。自分を愛してくれたことに感謝して、受け入れることを基本に考える。この関係は、最初は片思いのようなものであっても、やがて相思相愛に発展する可能性が高いように思います。割と理想的な状況のように思います。
 2−2.自分が誰かをハートで愛したのならば相手にアタックしても良い。あとは相手次第。上記とほぼ同じ。アタックする前に、相手に常識とモラルがあるかどうかを見極める。相手がハートの愛を知らない場合はトラブルが発生する可能性があるが、少なくとも情愛を知っている相手であればそこまでの問題は生じないが、その情愛が自分に本当に向いているかどうかを確かめることが重要かと思います。相手に常識とモラルがない場合は搾取される関係になる可能性があるので注意が必要のように思います。
 2−3.ハートの愛を知らない相手にもハートの愛を求める場合。これもやりがちな気が致しますけど、なかなか現実的には厳しい気が致します。自分が一方的にパートナーをハートで愛して、パートナーはそれほど熱心でないとしても、少なくとも誠実で真面目でモラルがあるならそれで十分とした方が良いように思います。
 2−4.相手がハートの愛を知らず、情愛で自分を愛してくれている場合。上と同様、相手にモラルと常識があるのであれば受け入れて良いパターンだと思います。

私の場合は(今回の理解に至る前は)基本はパターン1(時々、特定の相手にパターン2)でしたが割と鈍感でスルーすることが多く、今から思えば、もっと受け入れたり、自分に好意を持ってくれている女の子に感謝したりして、もっと女の子と仲良くしても良かったのではと思っています。今更ながら割と恒常的なパターン2に移行しましたが、実践の機会が今からどれだけあるかはわかりませんけど。思うに、あだち充の描くような恋愛は(割と恒常的な、安定した、割と普遍的な)ハートの愛を知っているパターン2の方で、なかなか現実にはあれが万人に対してできる人は限られるように思います。実際のところ、少なくとも片方がハートの愛を(少なくともパートナーに接する際の心情として)知っていれば(そしてもう片方のパートナーがモラルある人ならば)十分とした方がいいように思うのです。

こう書くと、情愛があたかも低いものかのように誤解されてしまうかもしれませんけど、情愛はそれなりに清くて愛に満ちた状態なわけです。情愛は束縛する愛ではありますが、それは情の愛が強いということなわけです。世の中にはこのレベルの愛すらも知らない人が大勢いて、おそらくは私の父や兄あるいは一部の親戚(特に父方の親戚)はこの情愛すらもあまり知らなくて、それ故にいつもひねくれた感情を持っていて、時折、特定の相手にだけ一時的に情愛が目覚める、という状態だったかと思います。上に記載した階梯は情愛からハートの愛への階梯ですが、同じように情愛以前と情愛の段階の間にも定義できて、父や兄は(情愛以前から)情愛を知る、という学びの段階にいたように思うのです。そして、情愛が当たり前のものになった後、ハートの愛を学ぶわけです。

これら、恋愛の非対称性がありますので、自分がモテたいと思うのであれば、より上位の愛をまず自分が理解することで、相手には同等かそれ以下が基本になるという法則が容易に成り立つわけです。例えば自分がまずハートの愛に達することができれば同等のハート以下の人からモテるようになります(パターン2−1、2−4)。自分が情愛のレベルに達したならば、情愛のレベル以下の人からモテるようになります(パターン1−4)。相手に何か特別なもの、例えばハートの愛などを高望みする(パターン1−3)よりも、自分と同等のパートナーと満足して暮らすというのが分相応ですしお互いに幸せだと思うのです(パターン1−4、2−1)。一方、自分よりも高い愛を知っている人から好意を持たれたのならば、そのような幸運に感謝して、それを受け入れれば良いわけです(パターン1−1)。

ハートの愛を知っている人がパートナーの場合はそれほど問題は起こりません。ただ、ハートの愛は温かい一方、クールでもあり、自分が情欲以前までしか達成していない場合はパートナーには物足りないかもしれません。情愛を知っている段階ではハートの愛ほどではないにせよそれなりの愛を知っていますので、情愛の段階の人は多少の束縛はあるものの、パートナーにした場合にこれまたそこまで問題は起こらないように思います。一方、情愛もそこまで知らず、性欲までしか知らない場合はトラブルが多発し、よって、いわゆる清楚系ビッチもこの段階(ハートの愛を知らず、情欲もそこまで知らずに学習中な、性欲までが優勢の段階)に多く生息するのだと思います。世の中には性愛もよく知らずに単なる所有欲・生存欲で生きていて性欲を学んでいる方も多少はいらっしゃいますので、それよりは性愛(が安定する段階)は上等なわけですけど、それでも、性愛までの段階以前の場合はトラブルが多発するわけです。これは段階が一瞬で完全に一気に切り替わるというよりは多少はオーバーラップして(重なって)いるように思います。その人のメインの段階がどこにいるかによって生き方と考え方、態度・振る舞い、そして愛の形が変わってくるわけです。