GWの前後に若い頃の10数年分の記憶の強制的なフラッシュバックがあって再体験を行い、現在の見識を元に再解釈をしてきましたが、大体のところで整理がついたように思います。
今回、愛というものを考え直して理解することにより、新しく生まれ変わって、意識は新たになり、ハートの愛というものを(はっきりと)知り、世界が全く違ったものになり、世界は素晴らしいことを(より)実感できるようになりました。これに至る前であっても瞑想で静寂だとか至福だとかを感じて割とこの感覚の初歩的なところを体感していたわけですが、以前に感じたそれらの初歩的な感覚は意識にまだ雲がかかっているかのような淡い感覚で、今回、本当に(ハートの)愛を知って世界が変わったと言える段階にようやく達し、閾値を超えて違う世界へと生きているかのような感覚になったように思うのです。
世間を見ると、本人は自身の愛の段階をそこまで理解しないで結婚している人も意外に多いように思う一方で、特にスピリチュアルと言っていなくても普通の生活において真実のハートでパートナーや子供を愛している人も相当数いるわけです。恋愛の非相対性があって恋愛の理解が男女で異なる上にそれぞれの理解の段階も異なり、結婚のメリット・デメリットが重なって、経済的利益だとか子供欲しさだとか自慢だとかステータスとかが絡み合って結婚に至るわけですが、ハートで愛して結婚という場合もそれなりにあるように思うわけです。そのような、素晴らしい世界に最初からいたわけです。ですから、私が特別になったというわけではなく、今まで何か欠けていた状態だったものがようやく普通になっただけなのです。素晴らしい世界というのが普通なわけです。
小学校の頃に執拗な虐めを受けてハートにある光の玉がパリンと涙を流しながら壊れて以来、メンタルを壊し、私の心は私の体から離れてしまい、体にはほんの少しの精神しか残っていない状態になり、精神衰弱のままずっと生きてきましたけど、ようやくその光の玉を修復し、今まで体に戻れなくて近くや遠くを遊離して離れていた精神が戻ってきて、光の玉が壊れる前くらいの状態にまで精神が回復し、精神衰弱を脱し、再度、ハートの愛を感じられるようになりました。光の玉は私の精神そのものでもあり、どうやら、小学校の頃に光の玉が壊れてから、私はこの世界としっかり繋がることができていなかったように思うのです。ずっと精神が肉体から分離していて、文字通り、この体に精神がきちんと宿っていない状態だったように思うのです。ですから、光の玉が壊れた以降は、肉体の感じる意識がずっと朦朧としていたわけです。今回、この体にようやく精神が戻ってきて、精神が体をきちんと使い始めたのです。今までずっと、精神がほんの少しだけ体に繋がっている状態で、意識のほとんどが眠っていた状態だったと言えます。それは、この体に精神がきちんと宿った、ともいうことができるかと思いますし、その同じ状態こそがハートの愛を知っている状態でもあると思うわけです。子供の頃にあった光の玉は3つで、今はまだ1つ回復したくらいですので先があるように思いますが、それでも、ひとまずの大きなハードルを超えたと言って良いと思います。光の玉(プルシャ、神霊、純粋精神)がサハスララから入ってきた時はまだ入ってきただけで、体としっかり順応していなかったように思います。今回、ハートが開けて、より一層、プルシャ(純粋精神)が体に順応したように思います。肉体の顕在意識から見た視点からすると精神が失われていて朦朧としていた、ということになりますけど、一方、プルシャ(純粋精神)の方の視点からすると、精神がずっと肉体から離れていた、ということかと思います。小学校の頃に私から離れた精神がようやく体に戻ってきたのです。ヨーガやヴェーダンタの理屈から言ってもプルシャは壊れることがありませんけど肉体から離れることはあって、数十年の間、精神が体にきちんと宿っていない状態だったように思うのです。そしてそれが精神虚脱の状態であり精神崩壊の状態だったわけです。それが今回、ようやく精神を回復しました。精神が体の中に戻ってきたのです。そして、そのことで、ハートの愛を感じられるようになったのです。元々、小学校の頃まで感じられていた感覚を、今回、取り戻したわけです。今から思えば、精神が体になければハートの愛もわからないし、恋愛もうまくできないのは当然だったと言えます。主に肉体でだけ生きていた状態だったわけです。完全に精神がないと死んでしまいますが、今思うに、小学校の頃と比較して20%くらいの散漫な精神でここ数十年は生きていたように思うのです。そうであれば、意識が朦朧としていても当然だったと言えます。今は、戻ってきたとは言ってもせいぜい50%くらいでしょうか。まだ本調子とはいかないようです。そんなメンタル崩壊していた私が生きながらえたのは、それでも私を見捨てずに心配しながらいつも見守って私の周囲にいてくれた(グループソウル繋がりの)過去の人生からの繋がりのあるいわゆる過去生の妻達(私の一つ前の分霊の妻達、私と同じグループソウルの分霊の妻たち)のスピリットのおかげによるところも大きいと思います。
これはカタルシス(浄化)だったのだと思います。アリストテレスが言ったように、人生における悲劇を、哀れみと恐怖そして愛を持って追体験することによりカタルシスを成し遂げることができたわけです。
こうして今思うのは、自分がハートの愛を知っていればパートナーは割と間口が広がって、誠実で信頼できる人であれば割と誰とでもうまくいくように思うのです。あるいは、ハートの愛を知っている人にアプローチすればかなりの確率で受け入れてもらえたりもするわけです(私がそう思っているだけかもしれませんけど)。
様々な可能性がここ数週間の間で湧き上がってきて、過去の出来事に対する様々な理解に導かれていきました。過去だけでなく、未来の可能性も示唆されました。実際のところ、瞑想で未来を見せられたところでそれがどの程度将来の現実性があるのかはそれぞれで、本当に未来に現実化したらその時に振り返ってみて「あぁ、あの時のことは正しかったのだ」と、現実が起こってから瞑想を振り返る、というので十分だと思うのです。スピリチュアルに慣れていない人がやりがちなのが「瞑想で見たから、こうなる筈。それを待ちます」みたいなことで、これをすると割と実現せずに時間だけが過ぎ、「あぁ、あれは勘違いだった」と後になって後悔することになります。これは、順番が逆なのです。瞑想で解釈した理解はそれはそれとして今後に生かす一方で、瞑想で見た予知を否定する必要はありませんが基本はスルーし、現実は今までと変わらず普段通り生きれば良いわけです。ですから、様々な可能性が湧き上がったとはいえ、それによって、自分の生活が大きく変わることはないわけです。
一番大切なのは愛というものに対する理解で、これは今後の自分の生き方を大きく変えるものであり、情報とか予知とかは二の次でそこまで重要ではなく、ハートの愛を理解できた、ということが一番なわけです。「ハートの愛があって、世界は素晴らしくて、そもそも世界は愛に満ちていて、(多くの)人々は優しくて輝いているのです。」 それが、ここ数週間の人生の振り返りで得た一番大切な教訓と理解になります。