大学時代での精神の回復

2023-05-07 記
トピック:スピリチュアル: 回想録

大学に入って上京して一人暮らしをすることで、高校時代まで私を虐めてきた父や親戚そして煩わしい同級生とも離れることができて、ようやく精神を回復できる状況になってきて、それでも、高校時代と同じように貶めようとしてゲラゲラ電話で見下してくる同級生からの電話はスルーして、ようやく心が落ち着ける状態になったのですけど高校までに徹底的に壊してしまったメンタルはその後も回復に時間を要し、特に20代は問題を抱えていて、30代には8割は解消しましたけど仕事でゾーンに入るたびに辛い感情が湧き上がってきて苦しくなり、ゾーンに入っても平気になったのは30代後半で、ほぼ解消したと言えるのは40代になった後になってのことでした。ゾーンに入ると仕事の効率が上がって対象との一致がなされるわけですけど、そのゾーンで感情的なチャネルが開いた状態になりますので、仕事の効率が上がる反面、さまざまに眠っている過去の記憶が活性化されて蘇ってきて辛い状態になっていたと思います。不意に過去の記憶に襲われてトランスになって意識を一時的に失うことも多々あり、そのトランスの時間は昔は数時間とか数日とか続いていましたので今思えばよくあのような辛い時期に自殺しなかったと自分に驚きですけど、その後、メンタルが回復するにつれてトランスの時間が短くなり、30分、そして10分、数分、そして数十秒にまで短くなってきて、最近はあっても10秒以下で回復できるようになったり、トランスというとかつては意識を失っていましたけど、同様の状態になっても今は意識を失わずに意識を保ったままでいられるようになりました。今でも短期ながらフラッシュバックが発生しているほどの酷い高校時代のメンタル不調が、これまで数十年にわたって生活に支障が出るほどに尾を引いていたと言えます。日本の会社はパワハラが横行していて、時々、上司がそういう人で私をコントロールしようとしてきましたけど全力で逃げたのですが、おそらく高校時代や大学時代は逃げることすらできないほどマインドコントロールされてきたように思えるのですけど、せっかく高校時代までの父や親戚そして同級生などの呪縛から離れられたのに会社でまた奴隷扱いになってメンタルを壊すのは嫌でしたので全力で逃げたわけです。パワハラしてくる人は逃げる人を非難しますけど、どう考えても加害者が悪いのであって、それで社歴に傷がついたとしても、それは仕方がないわけです。高校時代は逃げることすらできないほどに精神を病んでいて、私がカモでいることが当然と思っている周囲の人に従って生きてきて、私が従わないと私が悪いかのように怒鳴りつけたり馬鹿にしたりしてきたわけですが、今から思えば、それは、そのように私をコントロールしたり勝手な評価を下そうとする人の方がおかしい、ということがわかりますので、相手にする必要はないわけです。当人が考えている偏った考え方を他人にも強要して、その通りに他人が動かないと「お前はおかしい」と堂々と主張して、しかも、自己肯定感が凄く高い、というような、(偏っているのにも関わらず)立派そうに(一見すると)見えるという、おかしな人に私は惑わされてきたと言えます。そういう人は、空気を吸うかのように「カモはカモなのだから俺様の思う通りに動くのが当然」と(意識的か無意識的かは不明ですが)考えて他人を動かそうとして、その通りに動かないと「お前はおかしいやつだ(俺様の通りに動くのが当然、俺様の通りにしないお前はおかしい)」と言って他人の自由意志を否定して同調圧力をかけてきますので付き合うと疲れますし、自己肯定感を削られていきますし、多くの場合で見下してきますし、話しても大抵は無駄ですし、時に殴ってきますので、掛け合わずに逃げるのが良いわけです。上京し、状況がわかるようになり、20代でようやく「逃げる」ことができるまでに精神が回復して、その時点でようやく「カモ」ではなくなったわけです。そしてその後、精神の回復は継続し、30代でようやく最低限の回復と自律ができるくらいにまで回復したように思います。

色々と言ってはいても、側から見れば私は「変な人」で、その自覚もありましたから、本当に良い子に迷惑をかけてはいけないので良い子を守るために必要以上に近付かなかった、という面もあります。そうは言いましても、側から見れば私は割と「酷い人」だったかもしれません。それもまた自己肯定感の低さからくる自己評価なのかもしれませんけど。私はキリスト教徒ではありませんけど、神様に懺悔をして「(私の今までの酷い行為を)お許しください」と思ったことは多々ありましたし、今でも時々あります。今でこそメンタルが回復しましたけど、回復するまでの過程で数々の酷いことを他人にしてきたように思います。恩があっても、十分にそれを返せていない、という記憶も多々あります。これから、可能な限り恩返しをしなければ死ねない、という気持ちもあります。今まで酷いことをしてしまった贖罪の気持ちと、恩返しをする必要を感じています。それで許されるかどうかは相手次第ですが。相手にしても必ずしも良い人とは限らないので必ずしも許してもらう必要があるとは思ってはいないのですけど、少なくとも、贖罪と恩返しはする必要があると思っています。私がどう思おうが、私を見てくれて守ってくれる(見えない)ガイドはいつもいて、特に若い頃はガイドを激怒させていたように思います。色々と理由はあったとはいえ、若い頃の私はその程度の人間だったわけです。これはただ単に私が自己肯定感が低いだけですかね。なんだか、そんな気もしなくもないですが、現実だけを見て判断すれば、私は色々と最低な行為をしてきたと思います。まあ、自分に厳しすぎるのかもしれないですけど。若い頃に執拗に私に嫌がらせや虐めをしてきた人たちに比べれば私の贖罪なんて可愛いものかもしれませんが。どうも私は初心を貫徹できないようで、良いと思われる態度を最後まで貫くことができず、時々、良くない態度や行為をしてしまったように思うのです。脇が甘かったとでも言いましょうか。その脇の甘さが罪を作り、現在に贖罪する必要性に迫られているのだと思います。獣のような人間であれば獣が獣としての行為で他人を虐めたり殴ったりするのは獣としての本性ですけど、私は本来そのような人間ではない筈なのに酷いことを数えるくらいして、人も時々傷つけて、他人への思いやりも足りなくて、それは獣であれば自然なことですから贖罪なんてことにはならないのですけど、人間であれば贖罪が必要なのです。獣は酷いことという自覚がないし罪の意識もないので自殺なんてせずにただ単に他人を傷つけたり奪ったりするだけですけど、人間だからこそ罪の意識を感じて贖罪あるいは思い込んで自殺ということもあるのだと思います。

そして、今、オーラの防御はほぼ回復して、精神崩壊も回復して、それにより、呪いの98%は解けたように思いますけど、それでも呪いは未だに私にかかっているようで、それ故に未だに3〜5秒ほどではありますが悪魔的想念に襲われて、時々、そのままトランスに落ちて意識を失いそうになって、私にかけられた呪いの言葉「しね、しね、しね」という想念に包まれて、その呪いが効力を発揮すると私が意識を失ってトランスに陥ってその呪いの言葉を無意識で口走ってしまいますので、その呪いに負けないよう意識を保って堪えたりしていますが、未だに呪いは強い効力を持っているようで、きちんと抵抗するまでの一瞬、心の中と小さな声で一瞬口走り始めたりすることもあります。それは疲れている時やゾーンで意識が深いところに入って精神が表に出ている時に呪いがやってくると影響を受けやすいように思います。精神が表に出ている時はオーラの防御の外に精神が「剥き出し」になっている状態ですおで影響を受けやすいように思います。そのように、精神が表に出ている時は特に注意が必要なわけです。

最近まで、割とこの種の呪いはほぼ解消できていたと思っていたのですけど、ここに来てハートの愛に目覚めて胸のアナハタ・チャクラ(ハート・チャクラ)が開いたところ、意外に、過渡期として一時的に、この種の呪いに少し以前より敏感になってしまったように思うのです。感じやすい胸の心が、呪いをも感受しやすくなっているようです。胸のハートが「剥き出し」になっているため、呪いに襲われることがハートが開く前に比べて急に増えたように思います。ただ、これは過渡的なものかもしれませんので様子見と言ったところです。ハートが開いたことで意識が広がり、それにより過去の眠っていた記憶が次々に湧き出てきていて、それ故に、オーラの奥底に固まって眠っていた呪いが湧き出てきている、という面もあるように思います。かつて私は同級生などに執拗に虐められて呪われていて、その呪いがオーラにこびりついているようなのです。既にほぼ取れたような気がしておりましたが、まだ残っているとは驚きです。これは、最後の最後で、残っている呪いが解消したことによる過渡期の感情的解放だったのではないかと思うのです。

そして、ハートが開いたことにより最後に一気に呪いが解放された結果、しばらく経ち感情が落ち着いてきた後は、いよいよ呪いからほぼほぼ解消されたように思うのです。長らく自分が呪いにかかっていた自覚があって周囲の人に呪いの言葉を投げかけてしまわないかという心配事がありましたけど、この度、ハートが開いて呪いが解放されて一時期な感情的な不安定な過渡期を経た後に安定したことによりその呪いの最後の残りの部分も8〜9割は解けて、呪いからほぼほぼ解放されたように思うのです。まだ呪いの多少の残りが残り香のように微かにあって完全になくなってはいないですけど、日常生活においてはほぼ心配いらない状態になったように思います。

私が呪われるのはまだ良いですけど、その呪いの言葉で周囲の人に呪いが伝播しないように、特に誰かと一緒にいる時は気を使うのです。今まではかなり気を使って、今でも少しは気を使いますけど、以前のようにトランスに無意識に何かを口走るということはほとんどなくなったように思います。仲の良い人には私が変なことを口走っても貴方のことを言っているわけではないという点を理解してほしいと思うこともありますけど、このあたりを理解してもらうのはなかなか難しいですよね。どこまで説明して理解してもらえるかは相手によります。一般的には、私のように呪われている人に優しくしてくれる女性は少なくて、(普通、当然、)呪いに巻き込まれると不幸になりますから、好意を持っている人を自分の呪いに巻き込まないように一人でいる方が良くて、あまり積極的に相手を探してこなかった、という背景もあります。それでも私の相手をしてくれる女性は女神様のようで貴重であります。

特に今世では相手を見つけなくても(グループソウルの分霊の)過去生の妻たちが優しくて割と理解を示してくれているので、天界で会えば十分かな、という気もしています。この辺りはご縁ですので特に今世の制限はありませんけど、それでもいいかな、と思っております。一生をかけて信頼関係を築いたパートナーは、私が精神崩壊してここ数十年の間おかしくなっていたり多少のことがあっても気を使ってくれて心配して面倒を見てくれるわけで、死後も、天界からサポートをしてくれるわけです。人の愛、特に女性の愛というものはさぞかし深いものだと思います。 今世でパートナーを見つけることが今後あるとしても、そのように、将来まで続く信頼関係が築ければ良いと思っております。

過去妻のことは気のせいと言う人もいますけど、色々なことが重なり合っていて、おそらくは真実なわけです。既に何もかも見られていますから隠しようもないわけで、下手に生きている人を信頼するよりかは、私のことを知り尽くしている過去妻の方がよほど信頼できます。入れ替わり立ち替わり、大体5人くらいはいつも一緒にいます。いつも、部屋の中とか私の近くで浮いて見ていたり過去妻同士で井戸端会議しています。霊の状態の妻では金銭的なものとは無縁で気持ちに純粋でいられますし、今更結婚とかしなくてもこれはこれで気軽で幸せかなと思ったりします。特に若い頃は(傍目にはただの想像と思われるかもしれませんけど)夜に床に入ると毎晩のように過去妻らしき意識体が被さってきて脳内エクスタシー状態で寝ていることがそれなりにありました。当時はメンタル辛かったのでそのくらいは癒しが必要だったという面もあります。過去妻たちは興味深そうに私が行くところにいつもついてきて、ですから外出時や旅行などもいつも一緒で、一人旅行でもそんなに寂しくなくて、そんな過去妻同士は静かに見ているだけのことが多いのですけど時に井戸端会議であれやこれや私のことを話していて、時々、大きな声で「これがいいよ!」と(心の声で)教えてくれたり、はたまた、私の行動について「どうしてこんなことするのかしら???」と訝しげにしたり、過去の自分の行動のことを思えば、よくもまあ、私のように行動が支離滅裂で情緒不安定で精神崩壊していた人を見捨てなかった過去妻達の愛情の深さと言ったら驚くべきものがあります。心がどん底に落ちている時であっても、過去妻達の愛情と励ましの声を常に受けていたように思うのです。あの世には物質的な損得は存在しないですから、(現世の利益の関係を超えて)ずっとついていてくれて純粋な気持ちで助けてくれる人がたくさんいる私は幸せ者だと言えます。まあ、そうは言いましても、これに気がつくまで過去妻たちにずっと寂しい思いをさせていたのはそうなのですけど、ようやく、私をずっと見守って助けてくれていた過去妻たちの存在に自覚的になってきたように思います。

今回、過去の記憶が蘇ってきて愛を知って理解したわけですけど、実際のところ、精神を病んでいる状態では恋愛どころではなくて、当時、私は基本的にずっと清楚系ビッチから「カモ」として認識されていたようで、私のように精神衰弱の人は操りやすいと思ったのでしょう、ことあるごとに「ニヤリ」という表情をされて、恋愛というよりは、単に、都合よく扱われていただけだったように思います。このニヤリという表情、恋愛だけでなく、私をカモと思って高いものを売りつけたり仕事で厄介事を押し付けたり、はたまた、安い給与や報酬で延々と働かせようとしてきたズルい人がことごとくこの種のニヤリ顔をしましたので、その後、この顔を一瞬でも見せた人は私をカモにしようとしていると判断して全力でなるべく気付かせないよう密かに確実に逃げることに徹していました。少しでも怪しいと全力で逃げる癖がついてしまい、その間にも、実際、私はあまり気が付いていなかったのですけど私を誠実に思ってくれていた人はいて、怪しい人から避ける必要はあっても良い人は見極めるべきでしたが当時はそこまで器用ではなくて、本当に良い人に気付くことができずにスルーしてしまっていました。精神を病んでいたり、本当の愛を知らないと、何十年を無駄にします。実のところ、当時は、私のようにメンタルに支障のある人がまともな恋愛をすることはできないとばかり思い込んでいて、せいぜい、一時的にプラトニックで気持ちを投げかけてすれ違いをするくらいが私にとっての最上の幸せだったように思っていました。当時は、自分のことを、まともな恋愛は無理だと思っていたわけですけど、それすらも、他人が勝手に私を評価して思い込まされていただけであって、今から思えば、目立たなくて気付かなくてスルーしていた数々の良い子たちのどの子と仲良くなって幸せになれていたのではないかと思うのです。それは、私が精神を病んでいたとしても優しくしてくれたほどの素晴らしい子も今から思えば実はいたように思えるのです。若い頃は、恋愛になれる人がほとんどいないような気がしていましたけど、なんてことはない、実のところ、良い子というのは沢山いて、私に見る目がなかっただけのことだったように思います。であれば、選択肢はたくさんあって、本当に優しい人と仲良くなれば良かったと思うのです。他者から「お前なんて恋愛は無理」とか言われたとしても、実態を見れば、ただ単に、そう言っている本人が自分の自己肯定感を高めるために他者を貶めていただけ(本人が自覚しているかどうかはさておき)だったように思えます。恋愛というのは、誰でもできるのです。その恋愛の可能性を(特に他人に対して)否定してくるような人はまともとは言えません。「お前に恋愛は無理」とか見下して馬鹿にしてくるような人は、昔は「そうかなあ」とか受け入れてしまっていましたけど、今から思えば、そんな酷いことをいう人とは付き合うべきではなかったのです。そもそも、そんなことを言っている本人が頭が悪ければ状況を性格に理解していないわけで、私はそんな他者のいい加減なわがままな無責任な意見を真面目に取り合って受け入れすぎていて、いわば「脇が甘い」状態だったと言えます。そんな酷い適当なことを言う他人なんてスルーして放っておけば良かったのです。今は、本当に良い子を多少ながら見分けることができるようになって、人間関係も少しは選択できるようになり、問題は生じていないと言えます。実際、客観的に見れば、私を否定して「お前なんて恋愛は無理」とか言ってくる人の属性を確認すると私より遥かに低スペックで派遣やバイトだったりあるいはよくわからない配達業や扇動セミナーとかして稼いでいるような怪しい人だったり、はたまた単なる自営業とか、単なる主婦とか、更には、何しているのだかさっぱりよくわからない人からよくわからないことを言われていて、とにかく、そのほとんどは気にすることはなかったのだと今なら思えるわけです。心理学とか学ぶと自己投影とかの概念を教えられて、他者に対する印象は実は自分の心の投影だ、みたいなことも理解できるようになるわけですけど、あの学のない人たちは単に自分が思った印象をそのまま他人に言っていて物事の本質を考えてはいませんので単なる感想でしかなくて、そのようなお話に付き合っていても時間の無駄なばかりか、こちらが有害な影響を受けてしまうので関わらない方が良いのです。客観的に見れば私は(割と無名な大学ではありますけど)一応は大卒で年収も国民の平均年収より上ですし、今住んでいる分譲マンションは小さいので二人暮らしはきついですけどローンは終わっていますのでお金の節約のためにここに二人住めないこともないですしもちろんどこかに借りても良いですし、東京は家が高いので専業主婦を養うのはきついですけど共働きでもいいなら普通に暮らせるわけで、一方、私にかつて色々言ってきた人は所詮は・・・ と言ってはなんですけど、属性はパッとしなくて、属性だけで判断してはいけなくて人となりを見ないととは思いますし、誰が何を言っているのかというよりもその人の発言が何を言っているのかで判断すべきだとは思いますけど、実のところ、いくらそれっぽいことを言っていても、実が備わっていないと言いますか、本当にその人が立派な人であるのならば、職にせよ昇進できてもっとしっかりとしたポジションについていると思うのです。若い頃はその辺りがよくわかっていなくて、誰であっても対等に接するべきだと思って、私に対して何か言ってくる人は素直に受け入れていました。今思えば、脇が甘かったわけですね。