富の蓄積と日本的な価格安定志向が理想の未来の1つ

2023-07-18 記
トピック:スピリチュアル: 歴史

スピリチュアルにせよそうでないにせよほとんどの人が経済成長が必要、という考えにほぼほぼ同意しているのかなと思います。一部で「お金なんていらない」という考えがあるとしても、そのようにお金がなくなる考えは少なくとも現時点ではマイノリティかと思います。

この私の基本的な考えは、とあるタイムラインの太平洋沿岸に広がった、日本から始まった共栄圏で起こった史実を元にしています。とは言いましても別のタイムラインのお話ですから証明は難しいのですが、それが存在するとの仮定の元にこれからその姿を説明していきます。

<以下は別のタイムラインのお話を元にしておりますのでご注意ください>

共栄圏(の複数あるタイムラインのうちの幾つか)においては貨幣経済がかなり早い段階で鉱物ベースから紙幣ベースに切り替わりました。そうすると、共栄圏では非常に面白いことが起こりました。最初の数世代こそ人々は現代のようにお金や食べ物のために仕事をしていましたが、ある時から、お金が十分すぎるほど貯まるようになったのです。価格が安定し、貨幣が世に溢れ出して、人々のほとんどがお金持ちになったのにも関わらず、インフレが起きず、価格が安定したまま、人々が「他の人が必要だから」という他助の精神に基づいて、既にお金は十分あるのにも関わらず自分の家業を代々と続けるようになったのです。

特に、地方で特に有名な人や、その村で一番のお金持ちである村長のような尊敬されている人たちがお金をたくさん持っているのにも関わらず仕事を辞めずに続けていたことで、他の人々は「あの尊敬されている有名人や街の町長とかは自分よりお金を沢山持っていて仕事を辞めようと思えばいつでも辞められる筈なのに辞めていなくて一生懸命働いているしな・・・。俺が辞められないよ」と思って皆は仕事を続けたのでした。日本人の横並びの調整力が良い方向に働いていたとも言えます。

これは、西洋のケインズ経済学とは矛盾する現象で、共栄圏は当時、太平洋の周辺に隅々まで行き渡っていて中国や韓国も含めてアジアの各国まで含めるどころかアメリカの中部から西部にかけても共栄圏に含まれていました。大体アパラチア山脈のあたりが境目で、その東側はヨーロッパ各国の属国になっており、奴隷が解放されず使用されており、ヨーロッパ各国が支配するアメリカ東部とアフリカは地獄なのに対して日本を中心とした太平洋沿岸の共栄圏は奴隷もなく、食べ物は共有物になっていて無料であるために飢えることがなく、天国だったわけです。

その、天国の方の共栄圏は1600年前後の割と初期に食べ物が共有で無料という考え方が定着したわけですけど、それにより、経済活動が物や嗜好品に偏ることになり、土地は代々受け継ぐものとして安定していましたから、お金を使うところが限られていたわけです。

ケインズ経済学に基づくと価格の均等だとか何とかで富と生産がどうのこうの・・・ という考え方になっていますが、それは西洋の欲深い人々にとっては正しいのでしょうけど、このタイムラインではそのような均衡条件は成り立ちませんでした。ただ単純に価格が安定していって、人々はそこまでお金を使わなくなっていき、皆がお金を溢れるほど蓄積するようになっていったのです。当時の、共栄圏の人はケインズなんてもちろん知りませんから、ありのままの姿の史実として、上記のように、価格が安定しつつ人々は富を蓄積していったわけです。


共栄圏ができて数世代後、人も物もお金も十分に行き渡った時、人々はふと、自分の家にお金が山ほど溜まっていることに気がつきました。そして、他の人に聞いてみると、他所の家も同様に家にお金が山ほど溜まっていて、似たような状況だったのです。食べ物は無料で共有ですし、お金を使うこともあまりないのでお金があってもなくてもそれほど困らないけれども、とりあえず家に置いておく、という人が増えていたのです。

そして、堰を切ったように人々が「おい。お金がうちにはたっぷり溜まっているんだが・・・」「ああ、俺もだよ」「これ、仕事やめても暮らしていけるよな」「まあ、そうだけど・・・」みたいな話になっても何故か人々は今やっている仕事を辞めようとはせず、「お金的には辞めてもいいんだけど、お金持っているのは自分だけじゃなくて、みんな同じ状況だしな・・・。みんなもお金をたっぷり持っているけど仕事辞めるような人はいないんだよな。俺がこの仕事を辞めたらみんなが困るしな・・・。必要な人がいるんだから、仕事を続けなきゃな」と皆が同じように思うようになって、そのような共通意識ができて、その後、何世代にもわたって口々に言い合うのが「だって、この仕事を俺がしないと困る人がいるだろ」みたいなことを言いながら、代々続く仕事を続けたのでした。

共栄圏では海や山の資源は共通の資産として認識されていましたから、例えば海の魚を取るにしても必要以上に取らないですし、山の鉱物を取るにしても必要以上には取らないのです。今のようにお金さえあれば与えられるのではなく、必ず「どうしてそれが必要なのか」をその管理者に納得してもらわなければ得ることができないような運用になっていきました。魚を沢山撮ろうとしても「どうしてそんなに取らないといけないのか」を説明しないと割り当てを超えて取ることは許されませんでしたし、鉱物にしても何に使うのかを説明する必要があったのです。

そのため、共栄圏の魚の資源は豊かに保たれ、鉱物にしても何百年もずっと足りるほど十分すぎる量が確保できていました。

今のように、お金さえあれば魚を取れるだけ取る、という状況ではありませんでした。それは単に仕組みや制度として上限が決められていたという面もあるにはあったのですけど、それ以上に、それを作業する人が今の仕事量以上に労力を費やすためには苦労する人に納得してもらう必要があったのです。今であればお金をたくさん払って大量に人を集めたり機械を集めたりしますけど、共栄圏においては割と作業する人が固定で代々の家が管理を継承しておりましたので、基本的には安定した生産量を基本としていましたから、それ以上を得るためには、その人に必要性を納得してもらわないと資源を追加で得ることができなかったのです。

これは良い面もあればそうでない面もあって、特に、離れていて状況もよくわからないヨーロッパの諸国が大量の資源を買い付けようとしても共栄圏からは「どうしてそんな大量に必要なのだ。そんなに必要ないだろ」と言ってなかなか分けてもらえず、ヨーロッパ諸国の商人たちはストレスを感じていたように思います。共栄圏の資源の管理者は「ヨーロッパ諸国の商人はがめつくて、資源を大量に得てお金儲けしようとしている、ずるい人たちだ」という共通認識が共栄圏の人々にはありましたので、資源を大量に欲しいというお話はあまり相手にされていなかったのです。

そのように、共栄圏では融通が効かなくて面倒な面もありつつも、基本的には、人々は自分の与えられた仕事をして他人に奉仕することで日々を暮らす、ということができていたように思うのです。

これが、今後、日本そして世界が目指すべき一つの雛形になるように思うのです。


まずお金を十分に世界に行き渡らせて、その上で、価格が安定する。ケインズ経済学のように価格均衡をせずに皆がお金を十分に持っている状態にする。その時に、西洋の欲深い人はお金を沢山取ろうと価格を釣り上げたりして人々がお金に常に不足している状況を何とか作り出そうとしますが、その策略に負けずに価格が安定して人々が共栄圏のように「相手が必要だから」という気持ちで仕事をするようになった時に現在の資本主義経済が一つレベルアップして、共栄圏経済になるわけです。

そういう観点からすると、日本でこれまで経済的に豊かになると同時に価格が安定してデフレのような状況になっていたのは、実は良い傾向だったわけで、そもそも共栄圏はそのタイムラインでは日本発祥でしたから、このデフレと価格安定がもっと地球規模の広い範囲で起こった時に人々が仕事を辞めずに義務と奉仕の気持ちをある程度の人が持ち続けたならば理想的な状態に近づくのです。

世界を見ると、日本的な現象は良くない状況だと思われていて、世界の各国で日本のようなデフレ成長にならないよう危険視されていますけど、日本の資源が必要以上に他国の欲望まみれの人々に奪われないように気を付けた上で、世界の多くの地域で同様に富の蓄積と同時に価格の安定という状況になれば良いのです。

経済学者や政治家はその状態を問題だと思うでしょうし経済が成長しない良くない状況だと思うかもしれませんけど、共栄圏の状況を見ると、その価格の安定と富の蓄積は問題ないことがわかるのです。

地球規模で起こっている資本主義経済が、日本を雛形とした共栄圏経済に時間をかけてソフトランディングするのです。

ただし、共栄圏は必ずしも全てがうまくいっていたわけではなくて、他者に貢献する気持ちに欠けている人は割と義務感でストレスを感じながら自分の仕事をするような状況になってしまい、その鬱憤が内部に溜まっており、見えないところで共栄圏の停滞へと繋がっていたようにも思うのです。一見すると食べ物にも不自由しない理想社会であっても、義務というものにがんじがらめになって代々の伝統的な仕事をこなす人たちが溢れた社会は、例えば京都を見てみればわかるように本音と建前を使い分けて一見すると他者に貢献していつつも実はとてもストレスを感じている人が増えてしまっていたように思います。ですから、そのような社会においては、サービスを受ける側がとても気を使うようになり、例えば食堂で何か食事を頂く時も、食べに来た人がとても低姿勢で、時にオドオドしながら定食を頂いて、割とお金は飾りのようにもなっていましたから、食事をしてもお金が求められないことも多く、食べに来た人が「あの、お金は・・・」というとその食堂の主人は「ん? あぁ、お金ね。そこらに置いておいて」というくらいの軽いものになっていました。お金をもらってももらわなくても特に困らない世界になってはいましたけど、その分、サービスを受ける側がとても気を遣う世界になっていたわけです。基本的に人々が飢えないのは良い社会ではありますけど、このように、サービスを受ける側が神経質になってしまう社会というのは理想的とは言えないわけです。

かつてのタイムラインで共栄圏が生まれて、管理者がこのタイムラインは一旦は保留する必要があると判断したのもこの辺りにあって、確かに物理的には豊かになって飢えはなくなったけれども、人々の心が荒んでしまってきていることに気がついたことにより、一旦はそのタイムラインではなく、逆の方向、お金がとても優位な方向へと舵を切ったわけです。その一つが現在の資本主義社会であるわけですけど、今のタイムラインはお金というものがとても強い力を持ってて、サービスを受ける際に理由は基本的に不要でお金さえあればサービスを受けられるような状況になっていて、共栄圏とはかなり真逆の状況であるわけです。

どちらも割と極端なお話で、共栄圏のように共有物を作って管理して必要なだけ使うというやり方も、それはそれで有益だと思うのです。共栄圏で起こったことは実際にそのタイムラインで起こったことですので思想とは関係がなくて、共栄圏の出来事が共産主義のように見えるかもしれませんけど、共栄圏では共産主義とかいう考え方は出てきていませんでしたけど自然にそのようになりましたし、そもそも、考え方として共産主義というのが出てきたとしても運用する人たちが欲深ければ管理者が富を蓄積するだけでで、共栄圏のタイムラインがうまくいったのは、管理・運用したのが日本人だったからだと思うのです。


そういう意味では主義というのは割と何でも良いとも言えて、資本主義だろうが共産主義だろうが何だろうが日本人が管理すればかつてのタイムラインの共栄圏のように分かち合いを基本とした飢えのない世界になるわけです。逆も言えて、資本主義だろうが共産主義だろうが西洋の欲深い人が管理すれば今の世界で見るような欲望だらけの人が富を蓄積することになるのです。

今後、このような共栄圏を目指すために必要なのはもちろん第一に日本人的な考え方が必要で、西洋にかぶれてケインズ経済学でお金を沢山儲けるという考え方では共栄圏は作れないわけです。そうなると、日本に必要なリーダーがどのような人なのかが見えてきます。そのリーダーは具体的には誰かはまだ見えないですけど、少なくとも、共栄圏のリーダーにはなれない人は沢山います。次世代の共栄圏のリーダーは、ある意味、経済音痴の方が良いように思います。MBAなどの基本的な考え方はというと人々を競わせた上で給与は「ギリギリ生きられる程度」を与えるという経済学に基づいていますから競争本位であり、お金は十分に与えない、お金が不足した状態だからこそ労働者をコントトールできるというのがMBAの考え方なわけですけど、それは共栄圏の考え方とは相反するわけです。であれば、現在の企業の有力なリーダーは必ずしも次世代のリーダーには不適格ということになります。

共栄圏は戦国武将という稀有な存在によって基礎付けられたわけで、今の時代から同じような基礎を作るのは難しいかもしれませんが、強力な経済力を基礎として一部の地域や共有した価値観を持った人たちの間で経済圏を作ることは可能だと思います。

そのためには、経営ではなく、投資によって富を蓄積する、というのが一つの方策かと思います。経営に関わるとどうしてもMBA的な考えに基づいてしまいますが、投資やIPOであればMBAの枠組みを超えて富を倍増させることができます。そうして、投資で蓄積した十分な富を経済活動に回して、お金が不足しないという状況を作り出します。そうすることで、人々がお金のためにではなく「他人が必要だから」という考えのもとに仕事を続ける社会が出来上がるわけです。

お金のない世界というと、あたかも、人々が仕事をしなくてFire状態でいつも遊んでいる世界を想像されるかもしれませんけど、共栄圏では特に労働の義務というものは公的にはありませんでしたから(そのように遊んでいる人も多少はいましたけど)基本的には人々は何某かの労務についていました。ですから、目指すべきはFireではなくて、人々が、奉仕の気持ちで仕事を続ける社会なわけです。

実のところ、仕事をせずに遊んでいる人は共栄圏では軽蔑の対象でした。どのように奉仕をしているかが常に問われましたから、宿に泊まるにしても宿の女将さんに「何の仕事をされているのですか」などと聞かれて、何もしていない、などと答えようものなら、答えようによっては連泊を拒否されたりすることもあったかもしれません。それは取引においても顕著で、自分がしている仕事を説明して、相手に納得してもらうことが第一でしたから、単にお金があるから取引できて売ってもらえる、という状況ではあまりなかったのです。例外なのは食事で、加工していない食材は無料でしたし、食堂で出される食事にしても食材を除いた手間賃程度を払うことが基本で、そもそもお金がいらない食堂も多くありましたから、普段の生活においてはお金よりもその人の立場や信用というものに重きが置かれていたわけです。

共栄圏は、仕事をせずに遊んで暮らしたいという人にとっては厳しい世界だったとも言えます。そこには恥の感覚が強く働いていて、仕事をしていないと怠け者と思われて恥になるので奉仕の気持ちがそれほどなくても仕事を続けた、という面もあったように思うのです。理想的にはそのような恥の感覚や義務の気持ちよりも奉仕の気持ちで仕事をするようになるのが理想ではありますけど、恥の感覚が根底にあるからこそ人々が仕事を辞めずに続けたという面もあったと思います。

根底では恥の感覚で社会を維持しつつも、奉仕の気持ちへと移行できるよう啓蒙して導くことがそのような社会で必要になってくると思うのです。

お金が不足しない状態になり、自身の生活が安定し、心情的に豊かになって愛に満ちてくると奉仕の気持ちが生まれます。そのような人が増えたとき、奉仕によって成り立つ社会が生まれるわけです。それが、今後、世界が目指す方向かと思われます。


▪️お金から自由になるより大切なこと

ですから、世間でよく言われているような、「エネルギーが高い」とか「お金が足りない」とか「貧乏だ」とか、そういうお話は二の次なのです。

新しい世界というのは、「お金がなくても、自らの役割を自覚して、他人に奉仕できる人」がたくさん必要なのです。そうでなければ、一体、どうやってこの世界のインフラや生活必需品及び贅沢品も含めてそのようなものを維持していけるというのでしょうか?

日本が中心となった共栄圏のタイムラインにおいてもこれは問題になりましたが、その時は今のようには情報が行き渡っていない時代に起こったこともあって、たとえお金が沢山あったとしても自分の役割、自分の仕事を辞める人はそこまで多くありませんでした。そこでは、社会の枠組みから外れた瞬間に尊敬を失いますので、人は、自由で気ままに過ごすよりも名誉の方を選んで、自らの仕事、それは多くの場合は家業ですけど、それを続けたのです。

農家であれば野菜や果物を作ることを続けましたし、武士や商人という人たちもその時代にいて、自分の役割を続けたのです。お金があまり意味をなさなくなった時代であっても、役割というものは継続したのです。

今の時代に、もし、世界的な経済の大変革が起こって、インフラや家、そして食べ物にお金がほとんどかからなくなったらどうなると思いますか。多くの人は仕事を辞めてインフラが崩壊するでしょう。であれば、今のようにお金が不足している状態の方が世界にとって好ましいのです。

もし、共栄圏のタイムラインのようにそれが日本を中心とした日本人による文化圏で起これば、それは違った様相になって、人々は「他の人が必要としているから」という理由で自分の仕事を続けることでしょう。実際、それはとあるタイムラインで現実に起こりましたからその再現は容易ですが、欧米圏でそれが起こったとしたら、インフラは維持できなくなることでしょう。

ですから、世間で言われているように、「エネルギー革命で理想の社会になる」とかいうわけではないのです。ただ単に、お金が稼げなくて食べられない人が増えるだけのお話なのです。今よりも一層、悲惨な状況になります。エネルギー産業というのは多くの需要と経済を生み出していて、お金というものに頼っているこの世界ではエネルギー産業が崩壊した瞬間に貧困層が拡大するでしょう。

はたまた、仮想通貨でお金に苦労しなくなる、とか、そういうお話でもないのです。お金があったところで、誰も生活に必須なインフラやお店を経営しなくなったらこの社会は崩壊するだけです。

この種の、「コストがかからなくなる」系のお話は、大抵の場合は、自分が儲けて自分が楽をしたいだけのお話ですから、世間の大勢は飢えても自分がお金を使わなくなって今まで通りの便利な生活を維持したいという願望に根ざしていますけど、インフラが崩壊したら、そんな夢みたいなお話は成り立たないわけです。

  1. 大前提として、分かち合う、という思想が人々の中にできること。
  2. そして、その大前提の上で次第にお金が有り余るようになる。
  3. すると、お金が沢山あっても人々は他人のために仕事を続けるようになる。
この3段階でしか良い世界は実現しないわけです。
そうすると、農作物も沢山ありますから、分け合うようになります。

人は、自分の老後の生活が心配であるが故に結婚をしたり子供を沢山作って将来に備えますけど、特に結婚や子供を作らなくても生活が十分に保障されるようになれば、手間のかかる結婚や子供を作るという選択をする人も減ってきて、人口問題も解消します。

実際、その共栄圏のタイムラインでは人口があまり増えなくて、その原因を役人が調査したところ、どうやら人々は結婚して子供を作るメリットをあまり感じていないのではないか、苦労ばかり増えることに嫌気をさして、自由気ままに生きることを選んでいるのではないか、という分析がなされていました。その結果を受ければ、人口問題というのも共栄圏の方式にすれば自然と解決すると言えます。

この状態に達すると、ふと、とある時に人々は気がついて、「あれっ。こんなに資源を大量に地球から取り出さなくても俺たち十分に生きていけるじゃないか」と我に返って、そしてようやく、過剰生産を辞めて、地球の環境も豊かに戻るのです。

そうなると、エネルギー産業に関わっている人も「あれっ。フリーエネルギーを今まで潰しまくってきたけど、フリーエネルギーがあっても十分人々は豊かに生きていけるじゃないか。俺たち、今まで一体何をやっていたのだろう」というように我に返って、エネルギー問題も解消するのです。

海の魚も過剰に奪い合うことはなくなり、必要なだけ取るようになり、個体数も回復します。

このように、目に見える問題というのは精神面が解決すれば意外とすぐに解決するわけです。


▪️職業が固定化される時代

そのように、富が蓄積され、かつ、衣食住に困らなくなり、それでも人々が仕事を辞めなかった時にのみ分かち合いの世界が実現するわけですが、そしてやがて、やってくるのは職業が固定化される時代です。

衣食住を満たすための職業というモチベーションがなくなった時、そこに残るのは「(自分がいないと)誰かが困る」「自分が仕事を辞めたら困る人がいる」というモチベーションです。そして、その上に、「自分は、⚪︎⚪︎をやっている」「自分は、⚪︎⚪︎という立場にいる」という自尊心が加わります。

一方で、自分より偉かったり尊敬されていたり遥かにお金持ちの人が仕事を辞めないのを横目で見て「⚪︎⚪︎さんが辞めてないのに、俺が辞めれないよ」という気持ちもありますけど、基本的には上の2つがモチベーションになって仕事を続けるわけです。

それは自分のことだけでなく、他者との関わりにおいてもこの基本的な原則は保たれるようになります。

・自分は、自分の仕事を誰かが欲しているから行っている。自分が仕事を辞めたら(具体的な)誰かが困るから続けている。
・自分は⚪︎⚪︎という立場、ということを対外的に言える。そうすることで、自分に対する(他人の)態度が変化する。これは自分にとっての利益になる。

例えば、そのタイムラインの共栄圏で旅行に出た時に必ず聞かれるのは「貴方、何をされているのですか?(職業は何ですか?)」ということで、その回答によって宿の人から「まったく、何も義務を果たさないで遊びに来ているのかい」と思われるか、あるいは「立派な人ですね」と思われる違いだけでなく、具体的なサービスの内容も変わりました。

今の世界ではお金さえ払っていればサービスは同一、ということは原則となっていますが、共栄圏においてはお金そのものの価値はとても低く、その場の判断でサービスの提供が大きく変わることも普通にありました。その人が持っている信用とその場での立ち振る舞いおよび職業や家柄あるいは社会的地位というものが重要視され、立派な人には相応のサービスが提供される一方で、そうでもない人にはそこそこ、という感じで、柔軟にサービスが変わることを共栄圏の人は当たり前のように受け入れていました。

実のところ、これは共栄圏のよくない面で、恣意的な判断が強く入ってくるために様々な不調和をもたらしていて、今回のタイムラインでは平等なサービスというものを(特に日本人が)学ぶためにここ100年ほど(特に戦後)があったように思うのです。

そのような良くない面も踏まえつつ、共栄圏で起こったことを参考にすると、どうやら、お金が有り余ると、そこで、職業の選択が狭まって、職業が固定化されるようなのです。今でこそ色々な職につけますけど今後は職業が一定のところに落ち着くようになるわけです。お金のためというモチベーションがなくなることにより、「いま、自分ができることをして貢献する」という面が強くなるわけです。

そうなった時、いよいよ重要になってくるのが「その仕事が好きかどうか」です。「その仕事が得意かどうか」も大事ですけど、更に根本的に重要なのが好きかどうか、なのです。お金が十分に溢れるようになった時に続ける仕事というのは、ある程度は得意で、更には、ある程度は好きだからこそ続けられるわけです。

ですけど、お金が十分に溢れる世界になってから改めて仕事を変えようとしてもその頃には仕事の流動性が減っていますので、仕事を変えるなら早い方が良くて、やがて、お金が溢れるようになった時に職業が社会的に固定化されるように自然になっていって、そうなるのは割と長いスパンでのお話ですけど、意外に一人の人が生きているうちに起こる変化だと思うのです。

であれば、今、多少辛くても、「好きな仕事をする」ことを第一にした方がいいと思うのです。

そうして、やがて、お金が溢れるようになって、衣食住に困らなくなった時、仕事が固定化されるようになった時に、その時、「好きな仕事をしている」というのは大きなメリットになるわけです。

そのように仕事が固定化された時、やりたくない仕事をしていたりすると仕事を辞めてしまって、それで無職になると衣食住には困らないかもしれませんけど尊敬を完全に失ってメンタルが辛くなると思います。

ですから、今からでも、(今は趣味でもいいかもしれませんが)やりたい仕事に就いたり、(趣味や仕事を通じて)特技を伸ばしていくのが良いと思います。